【知道中国 2499回】                      二三・三・仲――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習165)

『古代羅馬的奴隷起義』は、「歴史を個別に裁断してはならない。ギリシャが判ればそれでいいわけではなく、やはり中国も理解するべきだ。外国の革命史が理解できればいいわけではなく、やはり中国の革命史も身につけなければならない。中国の今日を知るためには、中国の昨日も一昨日も学ばなければならない」(『改造我們的学習』)との毛沢東の考えに従って編集された「《学点歴史》叢書」の1冊である。

『古代羅馬的奴隷起義』は古代ローマ帝国の発展と消滅を次のように説く。

――奴隷と労働者に対する残酷極まりない搾取と圧政、さらには対外侵略と絶え間ない膨張政策によって、奴隷制を柱にした小規模な都市国家であったローマは強大な軍事大国に発展し、やがてヨーロッパ・アジア・アフリカに跨がる覇権国家へと成長した。だが、その後は帝国内の奴隷と貧困大衆、さらには地中海沿岸非抑圧民族が連帯し決起して巻き起こした叛乱と闘争によって、最終的に瓦解し、ついには跡形なく滅んでしまった――

かくて結論は「何千年にも及ぶ歴史が繰り返し証明しているように、一切の反動階級は滅亡が運命づけられているし、人民は必ず勝利する」となる。毛沢東史観の真骨頂だろう。

ここで考える。習近平政権は国内的には一強体制を驀進し、国際的には一帯一路を猛進する。まるで古代ローマ帝国などと言ったら相当に買いかぶりだとは思うが、なにはともあれ3期目に入った習近平指導部に『古代羅馬的奴隷起義』の学習を“懇請”したい。

そこで習近平最高指導部に問い質したい。若き日に学んだ「何千年にも及ぶ歴史が繰り返し証明しているように、一切の反動階級は滅亡が運命づけられているし、人民は必ず勝利する」を、依然として、絶対的に正しい万古不易の歴史法則と信じているのか、と。

次の『一堆土豆』と『十粒米的故事』は、共に文庫本大で20ページほどの幼児向け絵本。先ずは『一堆土豆』から。

 『一堆土豆』には「一堆土豆」と「一本工作手冊」の2つの物語が収められている。結論を先に言ってしまえば、毛沢東のよい子たちが、毛沢東の有難い教えのままに親切を尽くし大人たちからオ褒めの言葉を戴くという他愛もない、先ずはどうしようもなく愚にもつかない文革版勧善物語の類ではある。そう言ってしまったらミもフタもないのだが、そう表現するしかないわけだから、やはり致し方がない。

 土豆とはジャガイモを指す。「一堆土豆」の主人公である李春山クンは、襟元を赤いスカーフできりっと決めた紅小兵だ。毛沢東の教えのままに、学校から家に戻るとブタの餌になる草を刈って、人民公社のブタ飼育を手伝っている。籠を背に草刈に出かける李クンの背中に、稲刈り中の母親が「家に帰ったら土豆を用意しといてね。晩御飯のおかずの材料にするから」と声を掛けた。

 籠に草をいっぱい詰めて家路に急ぐ李クンが道端に落ちているいくつもの土豆をみつけた。「はは~ン、トラックに積み忘れたな。公社にとって貴重な財産だ。後で届けよう」。李クンは家に帰ると土豆を台所の土間に置いた足で、草を持って人民公社の養豚小屋へ。李クンは勢いよく草を食べるブタを飽きることなく眺めていた。

 家に帰って台所を見ると、あの土豆が見当たらない。横では母親が料理した土豆が美味しそうな香りを漂わせている。「母さん、ダメだよ」と、一部始終を話す。すると母親は、「人民公社を熱愛し、党を熱愛する。革命の伝統を、私ら決して忘れない。家の土豆を持って、早く人民公社に返しておいで」。煌々と耀く月明かりの道を、李クンは土豆を手に人民公社へと急ぐ。「一山の土豆は一片の熱い心。革命の伝統を永遠に発揚しよう」だそうな。

 次いで「一本工作手冊」だが、放課後の帰宅時の話である。李クンが農村の紅小兵なら、こちらの主人公の向群クン――群(じんみん)に向きあう――は街の紅小兵である。《QED》