【知道中国 2492回】 二三・二・念四
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習158)
共産党の手で、林彪事件に関する“不都合な真実”が暴かれることは、やはり共産党が崩壊でもしない限りあり得ないだろう。極論するなら1921年の建党以来現在まで、共産党中枢で繰り返される権力闘争は例外なく、発端から終焉まで終始一貫して不可解が過ぎる。ヒョッとして、この悪癖は未来永劫に続くものと考えておくのがよさそうだ。
これは共産党の生まれながらの体質なのか。封建王朝以来の権力闘争のおける伝統図式なのか。はたまた共産党の体質と伝統図式が合体したものなのか。
ここで思い出されるのが、京劇『蘇三起解』に登場する下っ端護送役人・崇公道の台詞である。身請け先の大家の旦那殺しの容疑で裁判に向かう元妓女・蘇三は、道すがら自らの潔白を下っ端護送役人の崇公道に哀訴する。それを聞いた崇公道は、「?説?公道、我説我公道、公道不公道自由天知道!」と諭すのであった。
「?説?公道、我説我公道、公道不公道自由天知道!(アンタは自分が正しいと言い、ワシはワシが正しいと言う。さてそも、どっちが正しいのか。お天道様のみぞ知るってこッた!)」
とどのつまり負ければ賊軍であり、どのような輝かしき前歴があったにせよ、どのように正しい考えに基づこうとも、毛沢東に楯突く極悪人なのである。そう言えば毛沢東絶対の時代、毛沢東は太陽であったはずだ。人々は太陽の日射しを浴びて生きる向日葵だった。林彪は太陽に楯突いた、あるいは毛沢東が林彪の行動を自らに叛旗を翻したモノと思い込んでしまった。そこに林彪の悲劇があったというわけだ。
ところで林彪断罪と共に73年年頭で注目しておくべきは、やはり鄧小平が復活に向けて密かに動き出したことだろう。一連の復活劇を、『文革大年表』(趙無眠 明鏡出版社 1996年10月)に基づいて時系列で追ってみたい。
2月20日:毛沢東の同意を得て、鄧小平一家が幽閉先の江西を離れ、列車で北京へ。
3月10日:毛沢東の提案により、鄧小平は党組織内での職務と国務院副総理に復帰。
3月12日:自らの書斎で開いた党中央政治局会議の席上、毛沢東は「1人の軍師、つまり鄧小平がやって来た」と語り、政治局における秘書長、あるいは参謀長のポストを鄧小平に任せたい旨を表明。
3月28日:周恩来と李先念が鄧小平と会い、その足で政治局会議に赴き毛沢東に“拝謁”。
その後、毛沢東の信認を得て着々と党内基盤を固めた鄧小平は、12月12日になると毛沢東の正式提案を受け人民解放軍総参謀長に就任。軍権の一切を掌握し、全国8大軍区司令官の編制換えを断行し、解放軍のテコ入れに着手。
当時、毛沢東は鄧小平を「柔中有剛、棉裡蔵針(柔中に剛有り、棉の裡に針を蔵(かく)す)」と評したとされる。その「剛」と「針」が、再び鄧小平の運命を翻弄することになるのだが、それはまた別の機会に。
林彪批判と鄧小平の復活――73年は、以後の共産党を翻弄する出来事で始まった。
ここらで本題に戻り、先ずは『現代資産階級的実用主義哲学』(陳元暉 上海人民出版社 1月)を取り上げたい。
不思議なことに、当時の出版物が例外なく巻頭に掲げられていた『毛主席語録』が見当たらない。加えて1963年11月出版の再版と言うのも気になるところだ。
ここで『現代資産階級的実用主義哲学』の初版は出版された当時の毛沢東を取り巻く政治状況を振り返ってみると、大躍進政策の大失敗を前に「我々には社会主義の経験が不足していた」と嘯きながら失政の責任と取る形で政治の第一線から一歩後退しながらも、“失地回復”の機会を狙い、ついに文芸戦線で蠢動を見せ始めたのであった。《QED》