【知道中国 2491回】                      二三・二・念二

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習157)

今回から1973年へと移るが、やはり注目すべきは、この年の1月1日に『人民日報』『紅旗』『解放軍報』が「新年献詞」と題した共同社説において、林彪を「極右」と規定して強く批判したことだろう。

共産党が毛沢東の生涯を詳細に記録した、いわば共産党欽定『毛沢東年譜(第六巻)』(中共中央文献研究室編 中央文献出版社 2013年)の1973年1月1日の項は、「林彪反党集団が進めたことは一筋の反革命修正主義路線である。この本質を確実に捉え、より深く批判し、批修整風を進める。先ず修正主義を批判(批修)し、次いで党内の異端分子を整理(整風)することを提示し、毛沢東の『深?洞、広積糧、不称覇』の指示を発表した」と記されている。

林彪を反革命修正主義として完膚なきまでに批判し、林彪に連なる勢力を徹底して炙り出して党から追放する。その一方で毛沢東は、「対ソ戦争に備えるため深く穴を掘って国防関連施設の地下化を進め(「深?洞」)、食糧を広範に備蓄する(「広積糧」)が、覇権は称えない(「不称覇」)」を指示したわけだ。なぜ「不称覇」なのか。覇権を求めて侵略戦争を狙うソ連に対し、中国が備えるのは専ら自存自衛のための祖国防衛戦争であり、であればこそ他に覇権を求めているわけではない――これが毛沢東の説く「不称覇」の論拠と思われるが、率直に言わせてもらうなら、やはり身勝手にも程がある。

『毛沢東年譜(第六巻)』の1月7日の項は、(1)周恩来が各地の批林整風運動の状況を毛沢東に報告。(2)河南・湖北で批林整風運動が大いに進展。(3)雲南では中央の指示に従って批林運動が深化。(4)四人組の1人である王洪文が浙江に出向き、地方幹部に向かって批林運動の「大局」に立った意義を積極的に説得――と綴る。

2日置いた9日、毛沢東はプール付きの自邸で中央政治局会議を主宰し、浙江などの地方での批林整風運動に関する討議を重ねた。

ここに記した1月上旬の記述からも、1973年の年頭段階では「批林整風運動」は必ずしもスムースに全国展開されたわけではない。地方によっては抵抗も見られ、運動は毛沢東の思惑通りには進んではいなかったと推察できる。

どうやら共産党は林彪派による一連の策動を「反毛沢東クーデター」と認め、71年9月13日のモンゴル領内での林彪の“謎の墜落死”から1年3か月ほどが過ぎた73年の年頭段階で「新年献詞」の形で林彪に対する政治的な最終判断を下したことになる。

この間、毛沢東、周恩来、四人組など共産党中枢で、林彪を毛沢東に叛旗を翻した“政治的極悪人”として如何に合理的に位置づけるべきか。甲論乙駁・左思右想・喧々囂々の議論が繰り返されたと思われるのだが。

長い時間を掛けた割に罪状が「林彪は極右」だけでは、あまりにも政治的に“芸”がなさ過ぎるとは思う。なにやら泰山鳴動してネズミ一匹の感なきにしもあらず。加えてメディアによる集中豪雨式の林彪批判――いわば林彪批判の絨毯爆撃――を展開するのは翌74年になってからだから、なんともチグハグ感は免れない。

じつは73年5月の中央工作会議、毛沢東は林彪批判と孔子批判を結びつけるべしとの意向を明らかにしている。その後、9月前後から孔子批判が見られるようになり、やがて73年年頭に示した「批林整風」から「整風」の2文字が削られ、74年になると上海人民出版社を軸としてメディアは狂ったように「批林批孔運動」を煽り始めるのであった。

「批孔」の「孔」は孔子ではなく周恩来を暗示していたとされるが、この間の毛沢東を頂点とする最高幹部の動きを思うに、『毛沢東年譜(第六巻)』に記されていない部分に、共産党にとっては“不都合な真実”が隠されていると言うことだろう。《QED》