【知道中国 2490回】 二三・二・廿
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習156)
1949年10月1日、毛沢東は天安門の楼上から「今日、中華人民共和国中央人民政府は成立した」と建国を宣言した後、「これで我が国は他から侮られなくなった」と続けた。富強の中国の建国を宣言したのである。この時、毛沢東式SF物語の表紙が開かれたわけだが、以後のページはすべて白紙だったに違いない。
その白紙のページに、毛沢東は自らが想い描いてきた「革命」と呼ぶSF物語を思う存分に記そうとした。ならば昨(2022)年末に全国で「白紙」を掲げ「白紙革命」を叫び習近平の厳格なゼロ・コロナ政策に反対した若者ではなく、毛沢東こそが「白紙革命」の元祖、本舗、いや老舗(?)と言うことになりそうだが。
極めて好意的に捉えるなら、毛沢東の当初の腹づもりでは、この物語は見事なまでに大団円を迎え、中国は世界に冠たる富強の国へと変貌を遂げたはず。米帝を凌駕する富強を掲げはしたものの、時の経過と共に紆余曲折を余儀なくされ、最終的にはコケてしまい、「超巨大な北朝鮮」に行き着いてしまった。それというのも、彼の目論見が余りにも現実離れしていた。言い換えるなら、出来もしない大風呂敷であり、超SF政治だったからだろうに。
建国直後の1951年末から52年にかけ、毛沢東は「三反五反運動」と称する反不正運動を発動する。幹部が犯す三害(汚職・浪費・官僚主義)と建国後も企業活動を続ける資本家が企む五害(贈収賄・脱税・国家資産横領・原料ゴマカシ・国家の経済情情報の盗洩)を、いわば建国以前から蔓延り、社会生活全般を歪める不正を、国民運動によって根絶すことで、建国から間もない社会主義中国の健全な発展を目指したと仮定したとして・・・。
お馴染みの林語堂は中国人と賄賂(不正)に関し、「中国語文法における最も一般的な動詞活用は、動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち、『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり、この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)と自嘲気味に綴っている。
あるいは毛沢東は「三反五反運動」を国土の隅々まで徹底すれば、古くから常態化してきた役人や悪徳資本家の不正は根絶できると信じていたのだろうか。だが、中国社会全体に絡みついた不正体質は、毛沢東の鶴の一声程度で改められるほどにヤワではなかった。
その一端を、次の言葉が表しているだろう。
「幹部らは職権を乱用し、現実からも一般大衆からも目を背け、偉そうに体裁を装うことに時間と労力を費やし、無駄話にふけり、ガチガチとした考え方に縛られ、行政機関に無駄なスタッフを置き、鈍臭くて無能で無責任で約束も守らず、問題に対処せずに書類を延々とたらい回しし、他人に責任をなすりつけ、役人風を吹かせ、なにかにつけて他人を非難し、攻撃し、民主主義を抑圧し、上役と部下を欺き、気まぐれで横暴で、えこひいきで、袖の下を使えば、他の汚職にも関与している」
これは対外開放路線に舵を切り、中国を新しい時代に向けて動かそうとしていた1980年当時の鄧小平の言葉である。なにやら憤激の思いがヒシヒシと伝わってくるようだが、その鄧小平だった身内の不正は止められなかったはずだ。毛沢東でも鄧小平でもどうにもならなかったわけだから、やはり不正根絶はSF世界の夢物語と言うことだろう。
毛沢東が文革で掲げた「魂の革命」、鄧小平の「先富論」「白猫黒猫論」、江沢民の「三つの代表(共産党独裁の正統性)」、胡錦濤の「和諧社会」――歴代指導者が掲げた大仰なスローガンがSF物語に終わらざるを得ない運命を背負っていたことを、それぞれの政策の残影に見出すことが出来る。独裁政権のスローガン政治は限りなくSFの世界に近いようだ。
ならば習近平の「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」も同じ道を辿る・・・のかナ。《QED》