【知道中国 2485回】                      二三・二・初四

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習151)

外国の侵略者とその走狗である清朝政府に対し、全国各地で広範な中国人民が武装蜂起する。かくして「1843~50年の間に発生した農民起義は大小合わせて70回を下らず、全国各省において各民族に及んだ。1851年初、洪秀全を領袖とする太平天国農民革命が、中国近代史の新たな、広くて偉大で壮麗な幕をこじ開けるのであった」と、『鴉片戦争』は“感動的”なフィナーレで閉じられた。

となれば次は、どう考えても、何がなんでも太平天国に登場願わないわけにはいかないだろう。と言うわけで、太平天国軍の若き将軍である陳玉成を描いた『陳玉成』(《陳玉成》編写組 上海人民出版社 1月)へと移ることになる。

「偉大なる革命闘争は偉大なる人物を鍛造する」(レーニン)の言葉の通りに、「太平天国という大規模な革命運動は、死をも怖れず断固として戦い抜く一群の英雄を鍛え上げた」。中でも傑出した若き英雄の1人が陳玉成であり、彼はなにものをも恐れぬ革命精神を五体に漲らせて太平軍を率い、凶悪な敵と生きるか死ぬかの激闘を繰り返した。敵兵(清兵)が固く守る都市を1つ、また1つと攻め落とし、何百もの敵の堡塁を抜き、数限りない敵を殲滅し、赫々たる戦果を挙げ、何回かの革命の危機を逆転させ、革命全般にとって有利な形勢を創り出した」のであった。

だが、口惜しくも敵の奸計に墜ち、1862年6月4日、清兵の手で殺害されてしまう。

かくして陳玉成を「中国人民の帝国主義と、その走狗には断じて屈服しないという頑強な反抗精神を発揮した」(「中国革命と中国共産党」『毛沢東選集 第2集』)と称え、「彼の偉大なる英雄像は人民に心の奥底にしっかりと刻まれ、その堅忍不抜の革命精神は人民の前進を励まし続ける!」と、『陳玉成』もまた“感動的”に閉じられる。

だが、『陳玉成』を読み終わって改めて痛感するのは、これは決して歴史書ではない。どんな風な読み方をしようと、やはり毛沢東式勧善懲悪革命英雄冒険活劇譚の類だ、ということである。それにしても『陳玉成』に心躍らせた世代は、いま、何を考え、どこで、なにをしているのか。

ところで、『陳玉成』を読んでいてハタと思い当たったのが、彼が清兵の手で河南省東部の延津西教場において26歳で処刑された1862年は、我が年号でいえば文久2年に当たることであった。

江戸幕府がイギリスから購入した千歳丸が長崎を出港したのが同年5月27日で、高杉晋作、五代友厚、中牟田倉之助、日比野輝寛、納富介次郎、名倉予何人ら幕末から維新を経て明治へと激動の時代を疾駆した俊英が「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノコト」(名倉)との深い感慨を抱いて晴天の上海に入港したのが6月2日である。

千歳丸が前檣にオランダの、中檣最上部にイギリスの、後檣に日本の、それぞれの国旗を掲げて在上海オランダ総領事館前の埠頭に投錨し、正式に上海到着を果たしたのが6月6日午前9時42分――ということは、高杉らが初めて上海の地に降り立った2日前、陳玉成は26歳の命を断たれたことになる。明治改元6年前で、高杉は23歳だった。

偶然と言えば偶然に過ぎないとは思う。だが、1862年=文久2年の上海を基点に太平天国と幕末維新を重ねてみると、一方の清国は太平天国を機に亡国への坂を転げ落ち始め、一方の日本は攘夷から開国へと大きく転舵する。なにやら“歴史の綾”が浮かび上がって来るようでもあり、同時に目に見えぬ歴史の繋がりを感じさせられるようでもあり。

とどのつまり陳玉成にしても高杉晋作にしても、まさに各々が生きる現代という時を、しかも懸命に生きた。であるからこそ、歴史とは往古から現在までの次々に興っては過ぎ去ってゆく現代史の重なりではなかろうか、と確信している・・・のだが。《QED》