【知道中国 2483回】 二三・一・卅一
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習149)
『王陽明』の次は「甲申の年は巡って五回目。今年は明朝滅亡から三百年の紀念の年となる」と書き出された『甲申三百年祭』(人民出版社 2月)である。著者は文革が始まるや、「過去に書いた著作は毛沢東思想に反している。すべて燃やしてくれ」と“超自虐的”に自己批判を敢行し、内外をアッと言わせた郭沫若である。
文革派の屁理屈極まりない批判、心身への残酷な攻撃に耐えきれず自裁した小説家・老舎に典型的に見られるように、文革勃発当初、知識人・文芸家・役者の多くは生死の狭間に立たされた。だが郭沫若は文革派に抵抗することはせず、一風変った予想外の行動に打って出た。それまでの自らの全業績を全面否定し、真っ先に「私メは大バカ者でした」と言わんばかりの自己批判だ。文革派に向かって率先して打ち振った“白旗”である。
このような行動を指し、我が国の論壇やマスコミには「稀代の風見鶏。オノレ可愛さだ。文革派の暴戻な振る舞いに抵抗することなく、逆に尻尾を振るとはなにごとだ。知識人の風上にも置けないサイテイだ。見下げたヤツだ」といった雰囲気の論調が溢れてものだ。
一方、当時の我が国の中国研究の主流を占めていた毛沢東支持・文革礼賛派は、「旧社会を生き抜いて社会主義の道を歩む文芸家・学者のなかで、岐路に立った局面選択に的確な判断をくだしてきた能力のゆえに、また日中関係史の一つの局面を身をもって代表するゆえに、中国革命・半世紀を人格的に象徴する大知識人といえる」(斉藤秋雄『現代中国事典』講談社現代新書 昭和47=1972年)と高評価することを忘れなかった。
自ら進んで文革派の軍門に降るという突飛な政治的綱渡りを敢行した郭沫若ではあったが、文革で迫害を免れることはなかった。だから自己批判も効果ナシだったようにも思う。
だが今振り返ってみると、彼は敢えて文革派への屈辱的な「屈服」を装ったのではなかったか。もちろん、その裏側には自らの人生と同義語であったはずの作品・仕事を断固として守り抜こうとする強固な意志と戦略――支配されながら支配する――が感じられる。
彼の大仰な「自己批判」は、じつは文革派に対する一種の「専守防衛」であり、捨て身の“戦略的大後退”と見なすべきだ。その傍証が文革終結から6年後、彼の死から4年が過ぎた1982年、「文学編」「歴史編」「考古編」で構成された膨大な分量の『郭沫若全集』(全38巻)が人民出版社から出版されていることではなかろうか。
かくて虎は死んで皮を残すように、郭沫若は死んで全作品を残したことになる。彼の生涯を貫くモノは永遠の自己防衛と自己肯定と自己憐憫だったと思えるのだが。
ちなみに郭沫若の作品で筆者が最初に手にしたのは『歴史小品』(岩波新書)で、大学入学直後の1966年5月頃、お茶の水駅の、今で言うなら新しい聖橋口改札辺りにあった古本屋で購入したように記憶しているが。
さて、ここらで筆者のショボい懐旧談は切り上げて本題に移ることにする。
14cm×20.5cmで全33頁の『甲申三百年祭』の冒頭には、「中国における農民起義と農民戦争の規模の大きさは、世界史上でも稀有なものだ。中国の封建社会にあっては、こういった農民の階級闘争、農民起義、農民戦争こそが歴史を発展させる真正の原動力だ。だが共産党の正しい指導がないゆえに、往時の農民革命は失敗に終わってしまった。革命の渦中、或いは革命の後、地主や貴族階級に利用され、とどのつまり農民は王朝交代のためのたんなる道具に成り下がってしまうのだ」(『毛主席語録』)が掲げられている。
明末混乱期に反明の旗を掲げて決起し、皇帝勢力を破り、北京を手中にした李自成の幕下に馳せ参じた李岩の生涯を描く。じつは北京入城後、得意が昂じて驕傲・粗暴な振る舞いが目立つようになった李自成を諫めたことが引き金となり、李岩は粛正されてしまう。『甲申三百年祭』は「李岩の悲劇は永遠に思い起こす価値がある」で結ばれる。《QED》