【知道中国 2482回】 二三・一・念九
――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習148)
やや唐突の感は免れそうにないが、72年出版の歴史関連書の手持ち分は始皇帝から一気に飛んで『王陽明』(楊天石編著 中華書局 11月)となる。始皇帝と王陽明の間の時代の人物を論じたものの有無を調べたが、見当たらなかった。
批林批孔運動は71年9月に発生した林彪事件から2年ほど過ぎた73年8月に始まるが、72年年末に「一切の哲学は特定の階級の利益を反映している。あらゆる哲学上の新学派の誕生は階級闘争の新たなる状況と必要性を反映している」といった視点から中国哲学を再検討し、判り易く解説しようとした「哲学史知識読物」が叢書の形で出版されている。
『王陽明』は「哲学史知識読物」の1冊であり、哲学・思想史上の問題を現実の権力闘争に反映させようという意図からして、林彪と孔子とを重ねて批判する批林批孔運動の前触れだったとも考えられる。
我が国では大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛、さらには三島由紀夫の生き方に多大な影響を与えたとされる「知行合一」を柱にした陽明学の始祖で知られる王陽明(1472~1529)の像を、『王陽明』は徹底批判し、木っ端微塵に打ち砕いてしまう。
かくして「あらゆる圧迫階級は自らの統治を維持するため、2つの社会的機能を持たなければならない。それが屠殺人と牧師の機能である」(レーニン)ということで、「王陽明は明代封建階級の代表的人物の1人であり、既にして屠殺人であり、また牧師でもある。彼の一生は屠殺人と牧師とが結びついた一生であった」となる。そこまで言うか、である。
1516年、王陽明は都察院左僉都御史に就いたが、「その任務は江西南部と福建の汀州、漳州などにおける農民起義の鎮圧」であった。「地主と官吏の圧迫・搾取から逃れた圧倒的多数の農民が構成する起義部隊」を相手に軍功を立てたがゆえに、王陽明は「屠殺人」にされてしまう。「農民軍の一連の革命行動は、地主階級の利益を保護する立場の王陽明からは極端に仇敵視される。彼は切歯扼腕して農民軍を『田畑は貴様らに奪われ』『財産は貴様らに略奪され』と詰り、遂には憤怒の形相で『貴様らを殺し尽くさねばならぬ』と声を張り上げ」、「各方面に手を回し反革命の挙に出た」ことになる。
1517年、弟子に送った手紙に「山中の『賊』を破るは易く、心中の『賊』を破るは難し」と綴っているが、「山中の『賊』とは山塞に根拠地を求めた農民起義部隊を、心中の『賊』とは地主階級分子の一部が農民革命に寄せる全ての考えを指す。それが地主階級の利益に相反することはもちろんではある。王陽明によれば、山中の『賊』と心中の『賊』は共に明王朝の統治にとって脅威であり、それゆえに彼は屠殺人の役割を十分に果たすと同時に『聖道』を教え広める牧師としても働いた」というのだ。
「王陽明の死後、明王朝の封建統治集団内部の矛盾はいよいよ先鋭化し、搾取と圧迫とに反対する人民群集の闘争は空前の規模で全国に波及し」、王陽明が説くように「一、二の『豪傑之士』の力によって時勢を引っくり返せる」はずもなく、「明王朝は澎湃と起こり全国を席捲した農民大起義の荒波に巻き込まれ倒れ」、歴史の必然として崩壊したと説く。
とどのつまり「王陽明の主観主義先見論哲学は明王朝の滅亡を救うことができなかった」わけだ。だが蒋介石は「王陽明のツバを拾いあげ」「共産党が指導する中国人民の轟々たる革命闘争に反対し」、「劉少奇の類に至って」は王陽明を「先哲」などと持ちあげ、「社会主義革命が絶え間なく深化しているにもかかわらず、先験主義の『天才論』を鼓吹し、党を奪い資本主義復辟という罪悪達成の目的を果たそうと企んだ」そうな。
『王陽明』も「歴史の趨勢は推し止めることが出来ない」という定番スローガンで結ばれる。だが、自らの政治的現在地の正しさを主張するため口八丁に手八丁、史実をネジ曲げ牽強付会、身勝手な強弁も平気の平左・・・これぞ恥行合一、と言いたいところだ。《QED》