【知道中国 254回】 〇九・七・初三
―だから、あなたの目は何処についていたんですか
『ソ連・中国の旅』(桑原武夫 岩波書店 1955年/08年復刻版)
「ソ連科学アカデミと中国社会科学院の招待によって、日本学術会議は茅会長以下十五名の視察団を両国におくることとなった」。保守合同がなって自民党が成立し、自民党対社会党の55年体制が発足した55年、彼らは両国に出発する。一行の中に京都大学教授でフランス文学者、さらにいうなら中国における食人(カニバリズム)の歴史を克明に論じた東洋史学者の桑原隲蔵を父親に持つ桑原武夫がいた。「平和に生きるソ連と中国の民衆のすがたの何ほどかはおつたえできようかと思い」、彼は旅行中に自らが写した写真に文章を付けて、これを出版している。
中ソ論争も中ソ対立もまだまだ先のことであり、毛沢東の啖呵ではないが「東風が西風を圧し」、社会主義の優位性が喧伝され、日本では「進歩的文化人」が大手を振り肩で風を切って歩いていた時代だった。その点を差し引いたとしても、この本は出鱈目が過ぎる。
ソ連から中国に入った桑原は、先ず感慨深げに「政府も人民も一体になって社会主義建設にせい一ぱい精進しており、その若々しい熱意には頭がさがる」と呟いてみせる。この程度はゴ愛嬌として許しておこう。だが、これからが断固として許せない。北京街頭に立って、「じじつ街に紙くず一つ落ちていず、ハエは滞在中一ぴきも見なかった」。次いで「新中国で私たちを一ばん打ったものは、その道徳性だ。社会主義的道徳国家といえよう」。「私はホテルの部屋にカギをかけたことがない。泥棒とパンパンはいない」と、歯の浮くような噴飯モノのオベンチャラが続く。やがて四川省成都への旅で、それは頂点に達する。
「一九五二年に開通した成渝鉄道によって成都まで十四時間。四十いくつかのトンネルがあり難工事だったらしいが、わたしたちは軟席寝車でらくらくいった。極上の無煙炭をたいており、窓をあけっぱなしてねたが、シーツは汚れていなかった」と、「極上の無煙炭」までヨイショと持ち上げた後、「まず人民公園にゆく。金魚の水槽がたくさんならび、見事な盆栽が陳列され、さまざまな小鳥がかってあり、のどかな感じ。もっともオオムは『毛主席万才』と四川方言でさけびつづけている」と。なんと成都ではオオムまで四川方言で「毛主席万才」を・・・ならば当時、中国各地のオオムは、その地方の方言で「毛主席万才」を叫んでいたのか。中国人なら「你別糊塗(アナタは正気デスカ)」と笑い転げるはず。
成都、重慶と回った桑原は次いで武漢で農業生産合作社を訪ねる。重慶から武漢までは長江下りの長閑な船旅だったろう。「土地は個人所有だが、共同耕作し、所有者は普通収穫量の三分の一をとり、三分の二を労働量によって配分する。三分の一を四分の一にしてゆき、漸進的にコルホーズ化する方向のようだ」と聞きだした桑原は、「わが田をもち、肉を食えるようになった農民は幸福そうだ」と感涙に咽ぶ・・・ジョウダンは止めてください。
広州経由で香港に出る。「女性の服装はあでやかに、口紅は色濃く、世界のゼイタク物資はすべてここにある。ふところに金のあるかぎり、そこはふと自由の国のごとく見える。しかし、それは消費者の自由であって、生産者の自由ではなかった。植民地文化、それがいかに美しく見えようとも、私たちには無用である」と。フーン、そういうものデスか。
08年6月、この“トンデモ本”を岩波書店は「50年代をみつめる」シリーズの1冊として復刻しているが、世間をたぶらかせた反省の意味を込めて・・・いるのかなア。 《QED》