【知道中国 256回】                                           〇九・七・十

―林彪は、どこで、どう道を間違えてしまったのか

                       『林彪評伝』(李天民 明報月刊社 1978年)


 老醜のとば口に立ったかに見えた毛沢東が、些かロレツの回らなくなった口調で「勝利の大会」と絶賛した69年4月の第9回共産党全国代表大会は、「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」との「中国共産党章程」を採択した。これで林彪はポスト毛沢東の地位を公式に確約されたはず。だが、71年9月にモンゴル平原に墜落した小型ジェット機の残骸と共に彼は無惨な焼死体を曝す。毛沢東暗殺に失敗しソ連への逃亡を図ったというのだ。かくして73年8月の第10回共産党全国代表大会で承認された「林彪反党集団粉砕の勝利に関して」との表題の政治報告では、「資産階級の野心家、陰謀家、反革命両面派、叛徒、売国賊」と悪罵の限りを浴びせられるのであった。

 次いで孔子批判キャンペーンがはじまるや、文革初期には”毛沢東の忠実な学生”として劉少奇追い落としに共同戦線を張ったはずの江青等「四人組」から儒教復活を目論んだ封建主義者と侮蔑され、さらには「資産階級軍事路線」を歩んだとまで糾弾されたることになる。毛沢東が死んだ年の暮れになると「人民日報」が「劉少奇、林彪ら党内修正主義路線の頭目」と蔑み、四人組裁判では「林彪四人組反党集団」として断罪される始末だ。

 「毛沢東の親密な戦友であり後継者」から反党集団の頭目へ――至上・極上の賞賛から超弩級の罵倒へ。まさに「溝に落ちた犬は叩け」とはこのことだろうが、わずか数年で天国から地獄へと突き落とされることになる林彪の蹉跌の原因を、著者は英雄主義に求める。

 著者によれば、林彪は初期の共産党幹部の中で最も共産主義に相応しい家庭環境で育ったが、若くして軍に身を投じたため「共産主義に対する深い思想的素養を持ち合わせてはいなかった」。だが「不撓不屈の共産党人」であり「完全無欠の軍人」であり、個人的にも「中共軍に残した華々しい戦火は少なくはなく」、訓練、作戦についても最上の成果を挙げている。但し、「思想路線問題に関しては、共産党の標準からみれば極めて幼稚な小学生のレベルだった」。ならば権力闘争にかけては百戦錬磨であり、「深謀遠慮の使い手である毛沢東にとって、林彪など相手になるはずもなかった」ということのようだ。

 「林彪の立派な戦士になるぞ」と叫ばせて部下の兵隊を敵陣に突っ込ませた。部下から「林司令官の健康をお祈り致します」「林司令官の命令に絶対服従致します」と応じられることを喜んだ――などのエピソードを挙げ、著者は林彪を幼稚な英雄主義者ではなかったかと考える。毛沢東にしてみるなら林彪は最大の政敵である劉少奇追い落としのための手駒の1つでしかなく、演技が終わったら舞台から消えるべき端役に過ぎなかった。だが林彪は、なにを勘違いしたのか共産中国皇帝への野心を沸々と滾らせるのであった。そこを毛沢東は見抜き衝いてきた。毛が断固として許すことのできなかったのは、英雄主義の虜になって舞い上がった小人物が自分の権威を傷つけることだったのだ。

 後継者の“言質”を与えた瞬間から姦計・狡智を尽くし、林彪に対する落とし穴を仕掛けたはずだ。69年4月の第9回共産党全国代表大会で毛が口にした「勝利」は、どうやら自分に向けてのものだった。千変万化する北京の権力舞台での主役の座は毛沢東だけに許されたもの。毛にとって林彪なんて所詮は猿回しの猿にすぎず・・・だが日本に、そんな林彪をさんざっぱら持ち上げていた研究者や記者がいたことを忘れない。絶対に。  《QED》