【知道中国 1067回】 一四・四・二〇
――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野10)
「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)
それにしても「戦後一九四六年、アメリカ軍による解放直後、再び短期間訪問し」とギランが綴る「アメリカ軍による解放」は何を意味しているのか。文脈の前後からして、アメリカ軍によって1946年に中国が「解放」されたと読み取るしかないのだが、そんな事実はなかった。
45年8月15日に日本軍は武器を置いた。だが中国では将来の政権をめぐって暗闘が始まっていた。延安から乗り込んだ毛沢東を、?介石は重慶で待った。アメリカやらソ連の外交当局の口添えで、10月には双方は「双十協定」を結ぶ。だが共産党は秘かに大軍を満州に送り、ソ連撤退後の満州制圧をめざす。アメリカ大使などの仲介も奏功せず、46年6月には本格戦闘に突入した。46年の、どの一日を切り取っても「アメリカ軍による解放」などと呼べる事態は発生していない。
まさに中野のいうように「一九四六年にアメリカ軍の手で解放されただの、〔中略〕それこそ面妖な話」ではある。
そこで中野が例示するギランが綴る「面妖な話」をいくつか記しておくと、
■「教会の入口の大きな黒板に一杯なにかが書いてあるが、あれは何か。『信者たちへの通告です』と〔中略〕私は、それを翻訳して貰った。次のような文句だった。/『第三十二回ソ連大革命の記念日が来た。今年はソ連第五次五カ年計画完成の年である。共産主義の路に偉大な進歩をとげたソ連は世界平和防衛の砦となった。中国もまた、ソ連の寛大な援助によって、一九四九年以来、労働のあらゆる分野において・・・・・』/まったく、いい読み物である」
■「中国じゅう、どこに行っても、外国人向けのホテルは、ロシア人か、ロシア語を話せる人間を目安にしていることがわかる。『手洗所』とか、『浴室』とかいった外国語の表示は、ほとんど全部ロシア語ばかりである。英語には、ときたましか出会わない。献立表も多くの場合、中国語と並べてロシア語で書いてある。ソ連人は、人のいう通り謙虚だとしても、中国人の方では、ソ連人を鐘、太鼓でたてまつっているようである」
わずかな引用だが、ここからだけでもギランが訪中した1955年当時、中国が如何に「ソ連人を鐘、太鼓でたてまつっている」かが読み取れようというものだ。
これに対し野中は、「ホテルの便所の話、料理の献立の話などになると、私には経験からいってギランがほんとうのことを書いたとは思えない」と噛みついた。だが、「もっとも、ギランは一九五五年秋現在で書いている。私たちの経験は五七年秋のことだから、二年のちがいですっかり改まったのだとすれば話は別になる。それにしても、改まったのだとしてもまだ私には解せぬ点が多い」とした後、「一九五七年秋の末の経験を書いておこう。念のためにいえば、この秋は、大十月社会主義革命四十周年記念にあたっていて、大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだった」と胸を張って記す。
「大十月革命」だの「大中国」だの、なにやら1970年前後の大学紛争の時代、全共闘なんぞのアジ演説や立てカンの文字を彷彿とさせる大袈裟極まりない表現であり、普通の感覚を持ったマトモな大人だったら気恥ずかしくて書けないような「大」の連発としか思えないが、こうなると中野は単に革命ゴッコにトチ狂っているおっさんにしか過ぎないといわざるをえない。
ここで中野は間違いを犯す。「二年のちがいですっかり改まったのだとすれば話は別になる」と、なにやらギランを小バカにしたような口吻だが、じつは中ソ関係が「二年のちがいですっかり改まった」ことに気づこうとしなかった。心此処に在らざれば、です。《QED》