【知道中国 200回】 〇八・十ニ・仲六
『ビートルズ・・・』―無産階級社会は、呆れるほどに徹底した階級社会だった―
『ビートルズを知らなかった紅衛兵』(唐亜明 岩波同時代ライブラリー 1990年)
著者は日本語で「この本は抗日戦争の時代から、文化大革命を経て現在に至る中国人一家の記録である。文革が始まったとき私は十三歳だった・・・」と書きだすが、そんじょそこらの「中国人一家」ではない。
父親は日本に留学し延安で活動し後に『人民日報』の総編集長まで上り詰め、母親もまた延安育ちの医者。恐れ多くも超エリート一家である。そこで建国後の北京では「幼稚園の時から、私たちは一般の人と別待遇になった」わけだ。
1960年、著者は中央軍事委員会が管轄し軍高級幹部の子女のための「十一学校」に入学する。この学校の「設備は、北京でも最高のレベルのものであった。各種の運動場、プール、大講堂・・・、学生はすべて学校に寝泊りする。宿舎もなかなか立派である。毎週土曜日、学校のバスで送り迎えしてくれる。病院があって、入院もできる」。因みに著者の母親は、この病院の院長を務めてもいる。世界の経済覇権を握るべく驀進する現在であっても内陸部ではマトモな校舎すらない劣悪な教育環境が常態化しているというのに、半世紀も昔に病院まで備わった学校があったとは驚き、いや呆れ果てる。共産党独裁下の旧ソ連には「ノーメンクラツーラ」と呼ばれた特権階層が存在した。
そのソ連を社会帝国主義と激烈に罵倒した中国だったが、やはり人民の膏血を貪る「赤い貴族」は生息していた。
かつて毛沢東は「為人民服務」を国是と掲げ人民を叱咤督励していたが、とどのつまり「人民」とは、毛沢東を頂点とする共産党幹部のことだったようだ。せっせと「服務」に励まされたマトモな人民こそ、いいツラの皮。もっとも人民には、面従腹背という抵抗のための最終手段があった。
上に政策あれば下に対策あり――いずれ狐と狸の化かし合い。
この十一学校は「幹部の子女学校だったので、みんな一種の優越感をもっていた。特にランクの高い幹部の子供は、ずいぶん生意気であった」ことは想像できないわけでもないが、「『お父さんの官職はなに?』『僕のお父さんは少将だよ、君は?』『わたしのパパはあなたのパパより星が一つ多いの、中将よ』。生徒の間では、いつもこんな会話があった」というから、なんともイケ好かない、食えない、小生意気な、こまっちゃくれたガキ共だ。
改革・開放を機に父親や爺さんの政治的影響力を背景に特権を振り回し甘い汁を啜ってカネ儲けに邁進する「太子党」が出現することになったが、カネ儲けは別として、すでに建国直後に太子党は存在していた。十一学校は軍幹部御用達の太子党扶育機関ということ。
やがて文革。「一九六六年の末から六七年の初め、幹部子弟出身の紅衛兵たちは、文革が意外にも自分たちの父親まで巻き込んでしまったのを見て、文化大革命に対する見方を変えてきた」。初期の革命無罪・造反有理などという無責任は許されなくなる。毛沢東の敵をでっち上げ、弱い犬猫をいたぶるように虐め抜き、ボロ雑巾を捨て去るように命を奪っていた彼らの尻にも火が点く。これからは家族を守るための戦いだ。武闘は凄惨さを加える。父親が『人民日報』総編集長のポストから追放された時点で、「赤い貴族」から「永遠に許されざる人民の敵」へと転落した著者一家には、否応なく過酷な運命が待ち構えていた。
「文化大革命における残酷な原動力は、大衆の心理の中にあった」と著者は道学者風に語るが、無産階級のうえに君臨する特権階級の身勝手で横暴な振る舞いもまた「大衆の心理」を煽り「残酷」ぶりを激化させ、大衆を暴民に駆り立てた大きな要因だろう。 《QED》