【知道中国 204回】                                       〇九・一・初六

『毛沢東に魅せられたアメリカ人』―頓馬でお人よしな米人マオイストの悲喜劇―
『毛沢東に魅せられたアメリカ人 上・下』(S・リッテンバーグ 筑摩書房 1997年)



 アメリカ南カロライナ州チャールストンに生まれ、「理想に燃える青年であった」著者は、「第二次大戦中に応召軍人として中国に派遣され、そこで、中国革命の烈火に惹かれ」てしまう。1945年に「ヒマラヤ連峰を越えて、中国に入っ」てから1980年に中国人妻と「アメリカ行きの飛行機に乗」るまでの間、「中国共産党に入党して、その理想と夢を追い求め、あらゆる困難を乗り越え、長い牢獄生活を送って」までして、「すべてを中国に捧げ」た。だが著者の「夢は、無惨にも、私達を道に迷わせる結果となってしまった」と呟く。

 ここでいう「私達」が著者夫婦、子供も含めた著者一家、中国人全体のいずれを指すかは不明だが、著者を「道に迷わせる結果となってしまった」原因は毛沢東その人にある。

 1946年10月19日、「人々が道徳的な生活をする所というだけではなく、新中国を鋳造し、新しい世界を作り出す溶鉱炉であると思った」延安で、「私が新聞でみたことのあるあの毛沢東、私がスタンフォード大学で学んだことのある、あの毛沢東」から「あなたの中国語はとても上手だ」と声を掛けられ、「彼の中国の前途に対する見方に敬服し、彼の哲学的ひらめきに感服し」た「当時二十五歳」の著者は、「自分がこんなに幸運であることが信じられなかった」。その瞬間、舞い上がって、毛沢東の虜になってしまう。以来、己を捨て人生のすべてを注ぎ込み、マオイストへの道を一瀉千里。長い悲喜劇の幕開けだ。

 たとえば文化大革命勃発直後の1966年10月1日、国慶節の祝賀式典に招待された彼は天安門楼上で毛沢東と言葉を交わし、握手する。職場の放送事業管理局では保守派と造反派の対立が渦巻き権力闘争の帰趨が定まらなかったが、毛沢東と握手した彼が加担したことで、造反派は一気に攻勢に転ずる。「圧迫されていた者が権力を握った途端、圧迫する側に変わっ」たということだ。彼は『毛沢東語録』を掲げ、敢然と敵に戦いを挑む。だが、マオイストとしての高揚した日々は長続きしない。67年10月になると文革は変質し、毛沢東は四分五裂してしまった国内を団結させるため、人民を「新しい敵と戦わせようとしていた」。皮肉なことに著者は毛沢東に裏切られ、「その新しい敵の一人」とされてしまう。

 「一人また一人と、私の外国人の友人達は次第に寄り付かなった。私と付き合っていると見られるのが、余りにも危険であるからだろう」。彼は「かたくなに自白を拒んでいる頑固なスパイ」と看做され、政治犯を収容する秦城監獄に放り込まれる。彼に対する入獄命令書には、当時の最高権力機構である「無産階級司令部十六人のメンバー――毛沢東・周恩来・江青を含めて――の署名があった」。来る日も来る日も厳しい尋問が続くが、時の流れと共に尋問は雑談、雑談は談笑に変わり、ニクソン訪中への感想を求めるようになる。じつは監獄の外側で時代が動いていた。林彪が変死を遂げ、ニクソンが訪中し、江青らの入獄を知る。時代は確実に大きく変転する。1977年11月には「スパイ容疑は成立せず、間違いであった」と告げられ、彼は家族との生活に戻ることを許されたのだ。

 やがて著者は「私が抱いてきた理想社会から遠ざかって行く」中国の現実を「どうすることも出来ない自分に、無力感と不甲斐なさを痛感」し、「これ以上中国に留まる意義」を失い、母国に帰っていった。
 発端は延安での出会い。結末は中国滞在35年間で獄中生活前後2回計16年間。米中関係の底を流れる愛憎二重奏が聞こえてくるようだ。  《QED》