【知道中国 205回】                               〇九・一・初九

『キネマと砲声』―無知蒙昧で一知半解。なんともトホホな映画評論家だ―
『キネマと砲聲』(佐藤忠男 岩波現代文庫 2004年) 



 日中戦争の時代、満州や上海に構えた撮影所を拠点にして、中国の大地を舞台とする数多くの映画を作り、映画という娯楽を通して中国民衆の心に「日中友好と東洋平和への道」を訴えようとした。映画による宣撫工作である。スクリーンに映しだされる絵空事の世界で「日中は同生共死の関係だ。共に立って欧米列強の植民地支配からアジアを解放し、共産主義の浸透を防ぎ止め、大東亜共栄を目指すべきだ」と訴えようとした。映画は芸術などではなく、なによりも時代の最先端をゆく大衆芸能であり、大衆にとって映画館が娯楽の殿堂であった時代には、それゆえに映画は民衆教育のための最良の手段だった。

 たとえばヒットラーは颯爽とした指導者ぶりを満天下にアピールしようと企て、毛沢東は革命の「か」の字も知らない農民に革命のなんたるかを伝えようと、芸能を十分に使いこなしたのである。毛沢東にとっての映画や芝居は娯楽によって味方を増やし、血を流すことなく敵の支持層を切り崩し、敵を屈服させるために必要不可欠な闘争の武器だったのである。日本軍もまた、当然のように教育・宣撫を目的とする娯楽映画を作った。

 とはいうものの映画製作に携わるのは生身の人間であり、科学技術の粋を集めたような映画もじつは最初から最後まで手作業と肉体労働によってしか作りだしえない。ましてや脚本家、監督、役者など作り手の全てが中国人であり、舞台も中国だ。ならば、そのまま日本側が期待したような映画が作られるはずがない。「ニッポン、バンザイ」のシーンに中国人観客にしか読み取れないような抵抗のカットが隠されていたり・・・。

 この本は、そんな映画作りのために集まり、集められた日中両国の映画人、軍人や転向左翼、抗日運動家たちの戦後にまで続く交友を縦糸に、日中両国の映画交流の歴史を横糸にして、日中戦争の時代の一面を描きだそうとする。それにしても政治に翻弄され続ける“中国のカツドウ屋”の悲劇は興味深く、雄々しく、痛ましく、もの悲しくて侘しい。

 「映画を見るという行為は、見る者の心を試すこと」と語る著者は、1942年に大ヒットした超大作の『博愛』を、「しかし第二次世界大戦もたけなわで、全世界に死闘がくりひろげられているときに博愛とは、皮肉だろうか、反語だろうか、あるいは逃避行だろうか」と訳知り顔で、半ば呆れて批評するが、この種の“岩波的芸風”を一知半解・無知蒙昧・夜郎自大・妄作胡為の典型と断言しておく。中国において国共両党政治の垣根を超えて国父と崇められる孫文が「博愛」の2文字を好んで揮毫したことを考えるなら、この超大作に込めようとした中国映画人のメッセージのみならず映画館に押しかけた中国庶民の思いを読み取るべきではないか。

 『博愛』に清末の混乱した中国を統一した国父・孫文への思いを馳せたはず。中国は1つ、中国人は1つになろうという決意だ。『博愛』は娯楽大作であると同時に抗日映画と看做すべき作品だったろう。それも読み取れないで「映画を見るという行為は、見る者の心を試すこと」などというゴ託宣だ。ノー天気で頓珍漢が過ぎる。

 それにしても、この本に日本側映画人の中心的存在として登場する川喜多長政が洋画の紹介者として知られる川喜多かしこの夫であり、1908年に北京で不可思議な死を遂げた川喜多大尉の遺児だったとは、迂闊にも知らなかった。日中の映画交流の歴史は因縁浅からず、それゆえ愛憎複雑に絡み合うものだということを、改めて思い知らされた。  《QED》