【知道中国 214回】                                      〇九・二・十

『毛を批判』―紅衛兵が突き破れなかった“一線”
『毛沢東を批判した紅衛兵』(H・マンダレー他 日中出版 1976年)



 「改革・開放の総設師」と呼ばれ、経済力を背景に超大国への道の端緒を切り開いた鄧小平だが、文化大革命の時代には毛沢東に楯突く極悪非道の「投機分子・大野心家・反革命修正主義分子」と断罪された。ある紅衛兵組織は彼の経歴を暴き出し、大字報(壁新聞)で告発する。その“罪状”は、文革の一面の真実を物語るものだ。

 「出身家庭:残忍な地主/階級的特長:野心家・陰謀家/党派:偽共産党員/処世哲学:ねずみをつかまえれば、黒猫だろうと白猫だろうとかまわない。/罪悪略史:残虐な地主家庭に生まれた・・・悪人鄧は小さいときから甘やかされ、着るものにも食べるものにも不自由せず、することといえば遊ぶことだけだった。なんという怠けもの!・・・1925年・・・中国共産党にもぐりこむことに成功した。この悪党は・・・恥ということを知らない。彼は夢中になって、蒋介石を《最高司令》などとほめあげた。・・・1949年、毛主席の革命的陣営に背を向けて、ブルジョワジーの側に身をおいた。1960―62年、我が国が一時的困難に陥ったとき、・・・いたるところで講話を行い、気どって歩き、人々を騙した。彼は毛主席の革命的路線に断固として反対した。・・・社会主義工業を資本主義の道へ引き戻そうとした。毛主席に対する彼の反対は気違いじみたものになっていた。・・・公然とわめきたて、毛主席に対する刃を研いだ。1963年・・・物質的刺激にのみ専念した。1964年・・・偽の整風運動を組織し、芸術・文芸に関する毛主席の指示に反対した。・・・北京大学の社会主義運動を圧殺した。革命的大衆はこの古株の反革命分子を粛清するだろう。/革命的大衆の趣意書:資本主義の道を歩む実権派ナンバー2。/組織の判決:党中央委員会からの追放。彼が倒れるまで、ひっくりかえるまで、臭いにおいをだすまで鄧小平を批判しなければならない」

 よくもここまで思いつくもの。悪罵の天才ぶりも、またDNAのなせるワザ。これまた中国政治に否応なく付き纏う伝統だ。当時、これと同じような壁新聞が中国全土に貼り出され、数限りない紅衛兵組織が鄧小平糾弾に血道を挙げたに違いない。かくて鄧小平は権力中枢から追放され、ド田舎で旋盤工に身をやつす。恐るべし。究極のポピュリズム。あるいは文革は毛沢東が行き着いたポピュリズムの完成形だったのかもしれない。だが、党組織の最底辺に突き落とされても権力の頂点への道を諦めず、遂には毛沢東路線をひっくり返してしまうのだから、鄧小平の胆力もまた畏るべし。これぞ臥薪嘗胆の権化。

 あれから40年余りの時が過ぎ、紅衛兵世代もいまや60歳前後。改革・開放という鄧小平の大英断が導いた現在の中国で、経済成長の恩恵に与かっている者もいれば、文革当時では想像すらできなかっただろう格差社会の厳しさに打ちひしがれている者もいるはずだ。

 いま、当時を振り返り、彼らはなにを思う。文革当初、あれだけ持て囃された紅衛兵は68年前後から毛沢東に見捨てられ、「農民に学べ」の美辞麗句に踊らされ、都市から農村に追いやられてしまった。かくて紅衛兵運動は終焉。「紅衛兵たちは、文革派官僚たちの後暗いところをかぎまわったため、奈落の底へ突き落とされるはめになってしまった」と、本書は序章冒頭で紅衛兵が演じた悲喜劇のヒミツを解き明かす。ならば、紅衛兵が「文革派官僚たちの後暗いところ」を徹底して暴いていたら・・・想像力を働かせてみよう。  《QED》