【知道中国 219回】                             〇九・二・念七

北京が支持したポル・ポトに抹殺されかけた中国系カンボジア人の物語
『最初に父が殺された』(ルオン・ウン 無名舎 2000年)


 著者の父親には「カンボジア人と中国人の血が流れてい」て、農村の豊かな家で「何不自由なく育」ち、「ノロドム・シハヌーク殿下直属のカンボジア王室秘密情報機関」に勤務。「自分の背が高いのは中国人の血が100パーセント流れているからだと言う」母親は中国生まれ。夫婦は7人の子沢山。長男のメンはフランス留学から戻ったところで結婚直前。10歳のキムは「金」で8歳のジューは「珠」と、両親は息子や娘に中国語に因んで名づけた。彼らの通う学校の「授業は、午前中はフランス語で午後は中国語、夕方はクメール語になる」。「わが家では、夜になると年下の子供たちがキッチンに集まって中国語の勉強をする」。著者は下から2番目で女の子。「父が私を抱き、中国の古い民話で笑わせてくれた」。両親は子供を飽くまでも中国人として育てようとしていたようだ。おそらく著者一家のウンという苗字を漢字で綴れば「呉」になるのだろう。

 こんな一家を悲劇が襲ったのが1975年7月。長い間、ジャングルを拠点に革命闘争を繰り広げてきたオンカー(=ポル・ポト軍)がプノンペンに入城してきたのだ。ロン・ノル政権を血祭りに上げ国政を掌握した彼らの手で、一家もトラックに乗せられ、農村に送られる。「『殺害がはじまったんだ』と、父は山道を歩きながら兄さんたちに話している」。

 「ベトナム人、中国人、他の少数民族は、人種的に堕落しているグループ」と看做すオンカーは、「民主カンプチアを、カンボジアがタイ、ラオス、南ベトナムにまで領土を広げていた大きな王国だったかつての栄光の時代に戻したがっているのだそうだ。オンカーは、カンボジア人の手によってこそ、これが達成できると言っている」。そのオンカーは北京の絶大な支援を受けていた。そこで著者は兄に「中国がオンカーを助けているんだとしたら、なんで私たち中国系がこんなにいじめられるのよ?」と尋ねる。幼い著者の疑問に「父は、オンカーは民族浄化の考えにとりつかれていると言う」。「母のクメール語には中国語の訛りが混じるため、用心しなければならない。父は母が、カンボジアから害毒のもとである外国人を排除しようとしている兵士の標的になるのを恐れてい」たが、それは現実となる。

 先ず『最初に父が殺された』。次の生贄は母だった。オンカーの兵士を前に「母の目は希望で大きくなり、動悸は恐怖で激しくなる。・・・突然、ライフル銃の音が響き・・・母はすでに息絶えている。母の頭を抱えながら、(末弟で3歳の)ギークが息ができなくなるまで悲鳴をあげつづける。兵士がライフルを持ち上げ、数秒後、ギークもまた静かになる」。

 ポル・ポト政権の筆舌尽くしがたい残虐行為を目撃し体験しながらも、残された兄弟は生き残りタイに逃れる。「バンコック国際空港に入っていく。搭乗ゲートでは、大きな翼のついた銀の巨大な弾丸が私たちを待っている。耳に聞こえるほど心臓が高鳴り、手のひらは汗で湿る。父の夢で勇気づけられた私は飛行機に乗り込」む。行き先はアメリカ。

 あれから30数年。カンボジアでは、すったもんだの末にポル・ポト政権の犯罪を裁く国際法廷がやっと始まるようだが、まともな裁判が期待できるわけがない。いずれカンボジアではポル・ポトとその側近に、中国では四人組に“罪をおっかぶせ”て一件落着となるはずだ。所詮は死人に口なし。だがポル・ポトたちの権力を支えたのが公党としての中国共産党であることは明白。両者の共犯関係が解き明かされる時は来るのだろうか。   《QED》