【知道中国 2174回】 二〇・十二・念二
――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港56)
江戸幕府が最初に海外に派遣したのは新見豊前守を正使、村垣淡路守を副使、小栗豊後守(後の小栗上野介)を監察とする遣米使節である。一行が日米条約批准交換のために品川を出港し太平洋横断の壮途に就いたのは1860(万延元)年旧暦正月のこと。一行が乗船したのはアメリカ政府が派遣した軍艦ポーハタン。これに従ったのが軍艦奉行・木村摂津守、船将・勝鱗太郎が乗る咸臨丸である。通訳(通弁方)は中浜(ジョン)万次郎で、一行になかには福沢諭吉の名前も見える。
一行には16歳、17歳、19歳、20歳の若者が参加しているが、最年長は61歳の五味安郎衛門張元。五味の出身地として記されている甲州藤田(とうだ)は我が故郷の隣接する農村で、祖母はその村の出身だ。あの時代の基準では、61歳は相当に高齢なはず。にもかかわらず幕府の命とはいうものの、地球一周の旅に出掛けたとは。五味の事績が、どのような形で藤田に伝えられているのか。機会があったら調べてみたいと思う。
さて一行だが、太平洋を横断してホノルル、サンフランシスコ、パナマ(地峡鉄道。パナマ運河開通は1914年)を経て大西洋へ。ワシントンでの公式行事を経てフィラデルフィアなどの東海岸の地方都市を訪問の後、旧暦5月13日にニューヨークから大西洋へ。大西洋を横断しポルトガル領カーボベルデ(因みに現在のカーボベルデ共和国。蛇足気味だが、ある中国の研究論文に依れば、2009年段階でカーボベルデには130人の「大陸新移民」が居住し、華僑華人協会が活動している。なお同国の人口は2016年段階で53万人余)へ。
ここから針路を南に取りアフリカ西海岸を南下しアンゴラ、ルアンダを経て喜望峰の沖からインド洋へ。一気に東へ進み、バタビア(現ジャカルタ)で久々の風呂気分を味わった後、香港到着は旧暦9月10日であった。
一行の1人は「数万里の海路を渉りてこの港に来れば、我隣国にして港も我に同じければ、皇国に帰りし心地せられていとうれし」と日記に綴った。香港着で「皇国に帰りし心地」がしたわけだから、たしかに「いとうれし」かったに違いない。だが香港市中で一行が目にした光景は、およそ「皇国」では考えられないものであった。
香港投錨翌日の11日である。上陸が許された一行46人は雨中の市街を散策した。その様子が、『亜墨利加渡海日記』に「我徒の者市中を徘徊なせば支那人群を為、前後に従行し筆談を以て言語を通せんとして我徒を繞り囲む。英人亦鞭を挙げて群衆を制し往来を開いて我徒を通行せしむ、支那人英人を恐れるる事鱗の鰐に逢うが如し」と、綴られている。
イギリスが香港を殖民地とした前後の1841年の人口は7,450人。一行の香港滞在翌年の1861年は11,9321人。殖民地化から20年で人口は16倍に増えたことになる。じつは一行が香港に立ち寄った1860年はアロー戦争(第2次アヘン戦争/1856年~60年)の講和条約である北京条約が結ばれた年であり、この条約によって九龍の割譲が定まったのである。そこで11,9321人には九龍側の人口も加わっている。
ということは「我徒を繞り囲」んだ「支那人群」も11,9321人のうちに入っているわけだ。とはいえ大部分は広東省から仕事を求めてやってきた労働者だろうから、当然のように文字を知らない。だから「筆談を以て言語を通せんとし」た者は極く少数だっただろう。
一行の針路を阻む「支那人群」を前にして、「英人亦鞭を挙げて群衆を制し往来を開いて我徒を通行せし」めたわけだが、この光景に直接してもなお、一行は「皇国に帰りし心地」がしていただろうか。殖民地となって18年ほど。香港住民はイギリス人に鞭で追い立てられる。まさに「支那人英人を恐れるる事鱗の鰐に逢うが如し」。はたして一行は殖民地の悲哀――宗主国の人間を「恐れるる事鱗の鰐に逢うが如し」――を痛感しただろうか。「皇国に帰りし心地せられていとうれし」などといった喜びは吹っ飛んだだろうに。《QED》