【知道中国 2173回】                      二〇・十二・廿

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港55)

マクレホース総督を殊更にヨイショする心算はないが、やはり“あの頃”から香港は香港らしく振る舞い、独自の輝きを放ちはじめたように思う。だとするなら、輝ける香港に巧まずして遭遇し、長逗留を決め込むことができた幸運に感謝するばかりだ。おそらく香港にかかわった日本人としても、最も愉快な香港生活を堪能できたのではなかろうか。

ここまで考えて疑問を持った。いったい、いつから日本人は香港にかかわってきたのだろうか。最初の長期滞在者は誰なのか、と。やはり我が香港長逗留物語に戻る前に、歴史を少し遡ってみる必要がありそうだ。そこで時計の針を170年ほど巻き戻し、話の舞台を香港から遥かに北に離れた函館に移すこととする。なぜ香港ではなく函館なのか。

安政二年三月十二日(1855年4月28日)、イギリスの遊撃艦隊が函館に現れる。この時、イギリスはフランスと共にトルコを巡ってロシアと戦っていた。もちろん主戦場はクリミア半島だったが、イギリス艦隊はカムチャッカ方面におけるロシア海軍への攻撃を目指していたのである。日本もまた、清国(中国)と同じように欧米列強による覇権をめぐる冷徹で複雑極まりない国際政治の渦の中に巻き込まれていたのだ。

さっそく函館奉行所の役人が乗船しオランダ語の解る者を探す。この時、函館奉行所には英語を解する者がいなかったのだろう。あいにくオランダ語は通じなかったが、代わりに日本語を話す者が現れた。「リキ」を名乗り、「歳三十五」だと。

奉行所の調役・力石勝之助の質問にリキが答える。

力石:「いずれの生まれに候や」

リキ:「九州にて候」

力石:「九州はいずれに候や」

リキ:「肥後天草にて十三歳の節、漂流いたし候」

じつはリキの本名は力松で、生まれは肥前島原の口の津である。14歳の折に肥後の川尻村(現、熊本市)から天草までサツマイモを運んでの帰路、強風に吹き流されてしまった。天保六年(1835)年の秋のことである。35日間の漂流の後、フィリピンの小さな島に流れ着き、やがてスペイン人の船でマニラからマカオに送られる。

マカオで彼らの面倒を見たイギリス人の助力で日本に戻ろうとアメリカ商船のモリソン号に乗り込むが、浦賀でも最後の望みを託した薩摩でも日本側から砲撃され、帰国を断念せざるをえなかった。幼かったゆえに左程の抵抗がなく異国の生活文化を慣れ親しみ、容易く「日本語が巧みなイギリス人」になれたのだろう。

それにしても、殖民地前後の香港で「日本語が巧みなイギリス人」として生きる日本人がいたとは、人々の営みの不思議さを感ずる。たしかに中国人が口にする「木は動かすが死ぬが、人は動かすと活き活きする」ものらしい。

以下、日本側の記録から香港における力松の生活ぶりなどを綴っておく。

住まいは香港島の関帝廟から3番目の家。アメリカ人の夫人との間に3子を儲けたが、1児を失っていた。22年ほどに及ぶ異国生活の大半を香港で過ごし、新聞経営者に雇われ、時に日本からの漂流民の手助けをしている。

安政五(1858)年晩秋のこと。太平洋を5か月漂流した後にイギリス船に助けられた尾張半田の商船「永栄丸」の乗組員が香港に到着する。かつて琉球でキリスト教の伝道活動をしたイギリス人の世話を受け、上陸6日後に香港政庁(と思われる)に向かうが、そこで待ち受けていた通訳が力松だった。この記録以後、その香港での消息は絶えた。

自らの筆で最初に香港を記録した日本人は、万延元(1860)年に新見豊前守を正使とする幕府最初の遣米使節の一行だろう。力松は一行の香港到着を目にしていたのか。《QED》