【知道中国 2171回】                      二〇・十二・仲六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港53)

マクレホース総督時代の最大の特徴は、やはり社会問題解決に向け、住民の意向を踏まえ、可能な限りの財政出動を一気に、迅速に敢行したことだろう。

ここで改め考えておくべきは1971年までの10年間で人口が310万人余から400万人強に増加し、加えて若者――香港生まれで香港育ちの「香港人1.0」と形容すべき世代――が人口の半数前後を占めるようになったことである。いわば若者が街に溢れ、香港が胎動し始めたのである。

その結果、香港社会には様々な問題が起きることになるわけだが、それまでの総督は香港の富を吸い上げることに大いに意を注ぐものの、住民の生活環境改善、教育向上、福利厚生などには関心を払わなかったのだ。

ところがマクレホース総督は違っていた。

急激な人口増が招いた劣悪な生活環境(水不足、電力不足、住宅不足など)を改善させ、教育環境を整え、就労機会を増やし、安定した社会環境を与えることで若者の将来に対する不安を取り除く――これが総督就任時に示した統治方針の概観だと言えるだろう。この方針に従って1970年代初頭には政庁予算を前年比50%増に拡大し、重点配備した教育と社会サービス部門では数年に亘って予算の完全消化を達成している。

香港島と九龍を結ぶ海底トンネル、香港島・九龍・新界をネットワークする道路・地下鉄・都市新交通システム、埋め立てによる土地の拡大、沙田・元朗・大埔など新界各地の再開発によるベッドタウン化、香港島・九龍の都市部における再開発、新空港など、現在の香港につながる大改造の基礎を築いたのはマクレホース総督時代であり、であればこそ香港が「世界の金融センター」へと飛躍することができたとも言えるだろう。

歩道を占拠し通行人の妨げとなっていた日用雑貨・おもちゃ・衣服などの屋台、不衛生極まりない食い物の屋台(大いにお世話になりました)、汚さに溢れハエが乱舞していた町中の露店の生鮮市場なども、時の経過と共にいつしか消えてしまい、気が付いたらモダンで小奇麗な街頭風景へと変貌していたのも、マクレホース総督による香港改造の一環であったに違ない。

いわば「香港の黄金時代」の幕はマクレホース総督であればこそ開くことができたとも言えるだろうが、その大前提に香港を取り巻く国際環境――イギリスと中国、中国国内、中国とアメリカ、中国と香港――が、香港に有利に作用し始めた。文革は一時の勢いを失い、ニクソン訪中は世界に新しい時代の到来を予測させ、エスカレートする一方のヴェトナム戦争に攻防双方は共に倦み疲れ始めるなど、1970年代に入って東アジアは新しい段階に移り始めたのだ。

警察部門の不正・腐敗体質の徹底改善も、マクレホース総督の業績である。

当時、香港では賭博は禁止だったが、警察の暗黙の了解のもとに賭場が開かれていた。地域の警察署の副署長クラスを務めていた中国人警官に連絡すると、いつ、どこでカジノが開帳されているかを知ることができた。

じつは京劇小屋に通い始めて知り合うことになる中国人の仲間――といっても、全員がオッサンやジイサンだったが――の1人が無職だというのに至って太っ腹だった。不思議に思っていたところ、仲間の1人が「ヤツの息子が某々地区の警察副署長だからなァ」と教えてくれた。なんでも副署長クラスの実入りが、いちばんいいらしい。だから羽振りがいいわけだ。当時の香港の警察は地域の黒社会からミカジメ料を吸い上げていた。いわば黒社会が一般住民から取り立てたミカジメ料を、警察が上納させていた。黒社会が一般社会から巻き上げた資金の上前を刎ねていたわけだから、警察は相当なワルだった。《QED》