【知道中国 223回】                                〇九・三・仲三

『中国の顔』―やはり君たちの目も節穴でしかなかった、ということだ―
『中國の顔』(野間・亀井ほか 社会思想研究会出版部 昭和35年)



 昭和35年5月30日、野間宏、亀井勝一郎、松岡洋子、竹内実、開高建、大江健三郎、白土吾夫の7人からなる日本文学代表団は「インド国際航空機に搭乗して、ネオン瞬く東京から香港へと飛び立った。日本の安保反対運動、南朝鮮の李承晩政権打倒、トルコのメンデレス政権反対デモ、アフリカの民族独立運動、キューバの反米闘争、ラテン・アメリカの民族独立運動、米U2型機の対ソ・スパイ飛行、東西首脳会談の決裂等々、うずまく世界の潮の中をスーパー・コンステレーション機が進む」。激動する国際情勢の中での訪中。「ネオン瞬く東京」などというレトロな表現に、却って一行の高揚した気分が感じられる。 

 以後、6月6日の「(香港より)英国海外航空機で東京着」までの40日弱。彼らは北京、上海、蘇州、広州などを回り、各地で「中国の人民、労働者、農民、学者、文学者、政治の中心にある方々すべての人々から心のこもった歓迎を受け、日本の安保反対のたたかいにたいする大きな支持を得ることが出来た」。だが招待したのは中国人民対外文化協会に中国作家協会だ。中国側の政治的意図は明白。所詮、代表団は猿回しの猿にすぎなかった。

 6月21日は旅行のハイライトともいえる毛沢東との会見である。緊張する一行を前に、毛は「日本のような偉大な民族が長期にわたって外国人の支配をうけるとは考えられない。日本の独立と自由は大いに希望がある。勝利は一歩一歩とえられるものであり、大衆の自覚も一歩一歩と高まるものである」と檄を飛ばす。かくて7月1日の送別宴は、「日本人民の安保反対闘争、ハガチーの来日、アイゼンハワーの訪日中止、岸の退陣声明など、激変する日本の政局、世界の動きの中で、ささやかではあったが、日本文学代表団のはたした役割は永久に日中文化交流史の数ページを飾るであろう。再見、再見と繰りかえし握手をかわし、いつまでも去りがたい」ものだった・・・そうだ。

 だが日本では、6月15日に全学連主流派が国会突入の挙句に女子東大生が死亡し、18日には安保条約は国会で自然承認されていた。つまり一行の政治的原則に立つなら、明らかに安保闘争は敗北であり、「再見、再見と繰りかえし握手をかわし、いつまでも去りがたい宴」などという甘酸っぱい子供じみた感傷に浸っていられる情況ではなかっただろうに。

 「中国革命が成立してから十年、私はちょうどいい時に中国へ来たと思った」という亀井は、「毛沢東のような人物は再びあらわれないだろう」と感歎の声を挙げる。松岡は「根の深かった外国勢力の支配、戦争、内戦、腐敗、甚だしい貧困、飢饉という絶望的にみえた悪循環をよくもこう短期間に打ち切ったものだ」と深く感心し、団員中最も若かった25歳の大江は「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と中国を讃える。中国側の政治的狙いはドンピシャだ。

 だが、毛沢東が推し進めた大躍進という人災によって当時の中国、殊に農村部は絶望的な飢餓地獄に陥っていた。とてもじゃないが「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」などと口が裂けてもいえなかったはず。やはり日本文学代表団の目は節穴だらけ。アゴ・アシ付の超豪華・無責任ツアーだ。人騒がせな話である。  《QED》