【知道中国 2042回】                       二〇・三・初七

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘3)

橘樸「中國を識るの途」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』(勁草書房 昭和41年)

橘は日本人の「謂はれなき優越感」を批判するが、じつは「謂はれなき優越感」の裏返しが“謂われなき劣等感”に行き着いてしまうことを忘れるべきではない。また「謂はれなき優越感」は日本人だけに備わった欠点のように記すが、では中国人は日本人に対し「謂はれなき優越感」を持たなかったとでも言うのか。この点でも、橘は一方的に過ぎる。

とどのつまり優越感にしても劣等感にしても、共に「謂はれなき」ものであろうし、それは日本・日本人が中国・中国人に対してだけ特に持っているというわけでもないだろう。

ここで飛躍するが、日中戦争最終段階で中国支援に立ったアメリカ軍現地最高指揮官だったA・C・ウェデマイヤー大将が自著の『第二次大戦に勝者なし』(講談社学術文庫 1997年)の冒頭に掲げた初代アメリカ大統領ワシントンの「訣別の辞」の一節を引用しておきたい。

「国家政策を実施するにあたってもっとも大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い反感をいだき、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことが、あってはならないということである。〔中略〕他国に対して、常習的に好悪の感情をいだく国は、多少なりとも、すでにその相手国の奴隷となっているのである。これは、その国が他国に対していだく好悪の感情のとりこになることであって、この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益を見失わせるに十分であり、〔中略〕好意をいだく国に対して同情を持つことによって、実際には、自国とその相手国との間には、なんらの共通利害が存在しないのに、あたかも存在するかのように考えがちになる。一方、他の国に対しては憎悪の感情を深め、そこにはじゅうぶんな動機も正当性もないのに、自国をかりたて、常日ごろから敬意をいだいている国との闘争にさそいこむことになる・・・〔以下略〕」。

ワシントンの考えに照らせば、橘の主張は半分正しく半分間違っていると言わざるを得ない。やはり相手国に対する優越感が「永久的な根深い反感」を誘発し、劣等感が相手国に対する「熱烈な愛着」を胚胎させるのではないか。

古今東西、国境を接した国は共に相手国とはソリが合わないもの。朝鮮(半島)と中国、中国とヴェトナム、ヴェトナムとカンボジア、カンボジアとタイ、タイとマレーシア、タイとミャンマー・・・数え上げればキリがない。合うわけのないソリを、それも自国優位な形でどうやって合わせるのか。それが外交の要諦だろう。

かつて日中関係を「善隣友好」やら「子々孫々までの友好」の常套句で形容していた時期があったが、「友好」ではない状態を糊塗するための4文字だったと確信する。戦後のある時期、日本には卑屈極まる劣等感に過度の贖罪意識を振り回す“日中友好人士”がいたが、じつに始末に悪かった。じつは今に至っても、この手の劣等漢は消滅しない。

ここで橘の議論に戻る。

「第二の誤解、即ち中國を儒教國であり、中國人を儒敎の信者であると見る態度は、恐らく日本人として當然に、少なくとも一應は陷べき誤だろう」とした後、中国人の宗教について次のように説く。

先ず道教については、「夥しい迷信氣分の結び付いて居る事は爭はれぬ事實だが、其の敎理の本源は中國民族の間に必然發生すべき性質を持つたところの所謂民族的宗敎であつて、耶蘇敎や佛敎と肩を並べて人類に普遍的に妥當すると誇る譯には行かないが」、「立派な且つ大規模な宗敎の一つであると云ふ事だけは充分に主張し得られるものである」。じつは「道敎は宗敎ではなく迷信だ」とは、布教に苦慮した「耶蘇敎徒の獨斷に過ぎない」。ならば「耶蘇敎徒の獨斷」を鵜呑みにした事が、日本人の間違いの始まりとなろうか。《QED》