【知道中国 2006回】 一九・十二・念七
――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(24)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
伊東は、井戸川大尉の「其の間徹頭徹尾徒歩を強行したる勇気洵に驚嘆すべきである」と舌を巻く。7年ほど前にこの一帯を歩いた筆者の細やかな体験からしても、伊東の旅行すら「洵に驚嘆すべきである」である。だが、その伊東をして「勇気洵に驚嘆すべきである」と言わしめるほどの井戸川大尉の旅程は、想像を絶するほどに困難を極めたに違いない。
さらに西南に進んだ伊東は、井戸川大尉が遂には断念せざるを得なかった騰越の地を踏んでいる。
この地は雲南西南端に位置し、さらに西南に進めば北ビルマの要衝で漢字で「新街」とも「八莫」とも綴るバーモに到る。バーモから南下すればマンダレーを経てヤンゴンに繋がり、北上すれば漢字で「蜜支那」と綴るミッチナー(ミイトキーナ)を経てフーコン谷地を貫きインド東部のレドに至る。
フーコンとは現地語で「死」を意味する。フーコン谷地は、その名に違わず豪雨、猛禽、毒虫、疫病に加え灼熱と湿気の地獄である。文字通り死の谷だった。第2次大戦後半、日本軍はフーコンの攻防戦でインパール以上の苦戦を、いや壊滅的打撃で被ったのだ。
昭和19(1944)年から20(45)年にかけ、この地をめぐって日本、中国(国民党軍)、アメリカ、イギリスが死闘を繰り返すほどに?西から緬北に広がる一帯は、戦略上の要地だった。それはいまでも同じだろう。であればこそ現在、中国は、この地域を経由して猛烈な勢いで“熱帯への進軍”を続ける。東南アジア大陸部制圧を狙う一帯一路である。
伊東の旅に戻る。
伊東は騰越を「支那帝国の西南の門に当る要地であって、英国総領事館が置かれている」とし、「英国総領事館の調査によれば一日往来する騾の数は二百五十頭に上り、緬甸からは木綿又は綿糸を輸入する。輸出は雄黄、阿片等であったが、今阿片は厳禁したそうである。騰越の城は囲六里、人口九千と注せらる」と紹介している。ここでいう城は城壁のことであり、この城壁に囲まれた騰越の街に9千人が住んでいたわけだ。
じつは人口が9千で、「一日往来する騾の数は二百五十頭」程度の騰越に、英国は20世紀に入るや早くも総領事館を置いている。騰越が伊東のいう「支那帝国の西南の門」という地政学上の要地に位置しているからだ。19世紀後半以降、英国はインドとビルマを、仏国は仏領インドシナを、共に中国の南方に確保した殖民を拠点に中国南部への侵攻を狙った。つまり「支那帝国の西南の門に当る要地」である騰越は、英国にとっては中国侵攻のための橋頭堡ということになる。
「英国総領事はリットン氏」は「是非領事館に泊まれと云って非常な厚意を尽くしてくれた」。「年齢は三十五六に過ぎない様だが精力絶倫で、雲南総領事を兼務し、書記も助手も何も使わずに只一人で」全業務を担当していた。彼の仕事ぶりを目の当たりにした伊東は、「これを我が日本の領事館の執務振りに比べると実に非常なる差異がある」と驚嘆している。確か騰越には日本は領事館を置いてなかったはずだから、伊東のいう「日本の領事館」は彼が旅の途次で接触した騰越までの各地の日本領事館を指すと考えられる。それにしても既にこの時代から、我が在外公館の仕事振りは大いに問題があったわけだ。
「英国総領事はリットン氏」は、伊東の旅行の「先途を気遣ひてバーモ、マンダレー、ラングーン等の知事、印度政府の外務省及び君士但丁堡(コンスタンチュノーブル)の英国大使等へそれぞれ紹介の書面を認めて呉れ、医師を聘して私の健康を診断せしめ」、「出来得る丈の調査の便宜を与えて呉れたのである」。総領事が個人的に便宜を与えてくれたというより、背後に日英同盟をテコにした当時の日英友好関係があったように思う。《QED》