【知道中国 2000回】                      一九・十二・仲五

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(18)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 ◆◆2000回目の書き出しが厠房とは・・・偶然の一致にしてはデキ過ぎで、天の配剤にしてはクサ過ぎだが、厠房関係は思わず力(リキ)が入ってしまうから致し方ない◆◆

 さて厠房とは「廣さは四五坪から十四五坪もあらうといふ眞暗な部屋で、其の大半は肥壺であつて、他の半部は豚小屋である。肥壺の上に板を縱橫に列べてある。用を足す時は其の上に屈むのである。朝の出發前などには、お客や轎舁が、其の上に折り重なつて居る。他に見られても平氣なものである。初めの内は吾々日本人も堪へ難き苦痛であつたが、其の内に馴れて仕舞ふ。此の一隅には柵を設けて豚が臭い臭い泥濘の中で轉つて居る。此の豚には幾度惱まされた事であらう。一日の旅の疲れでグツスリと寝込んで居る所を、眞夜中に至つて、例のケタタマシイ叫喚と、騒擾に眼を覺まして、終夜寝付かれぬ事も度々であつた」。

 そいつが料理され、食卓に供され、やがて胃の腑へ。その先は肥壺の上に縦横に渡された板の上から落下し、再び豚の成長を促すわけだから、環境に負荷は掛からない。もちろん多少の臭気は気合いだ~ッ、いや我慢だ~ッ。最近になって国連――というより国連に巣食うインテリ・ペテン師たちが自らの延命を図って「SDGs(持続可能な成長)」などと例の“目眩まし錬金術”を振り撒いているが、東大路に点在する旅宿での営みこそ究極の「SDGs」だ。これなら鼻と目に負荷は掛かるが、環境にはゼッタイに掛からないはずだ。

 東大路の旅の終点は成都である。

「日露戰爭後、支那が頻りに敎習を日本に求めた際は、成都に於ける日本人の在住者は實に六十餘名の多きを數へたといふ」。ところが「其の後漸次に或は解雇され或は自ら辭職して、一人減り二人減りして、只今も尚敎習として居殘つて居るのは、染織工塲の技師一人である。此の外に領事館に三人、駐在武官の家に二人、日本人在住者は、總てを合して以上六人に過ぎ無い」という。

 「排日の餘波は茲(成都)にも怒濤と渦きて、調査の任務は思ふ半だも遂げられず、僅に祠堂、江樓に忠臣、古賢の跡を訪ね、城壁の上遙に故國を想ひて萬里遠征の脚を磨するのみ」。「排日の餘波」は、日本人が身の危険を感じるほどに過激だったということだ。

 やがて岷江を下って峨眉山へ。

 「昆崙の嶺、蜿蜒として東に走り、其の一支、將に支那の西境に入らんとして、一大靈山を作す。是れ峨眉山なり」。「山麓峩眉縣城の南門を出でて、頂上に至る迄二十支里の間、凡そ二支里乃至五支里毎には、必ず寺觀あり。寺觀には總て客室、齋堂を有し、登山者の到る者あれば、寺僧先を爭つて之を迎へ喫茶喫茶、と客を牽く所、宛然市井の茶汲女に異ならず」。「寺僧は、常に絡繹として來る此等登山客の應接に忙殺せられ、寺務よりも、旅館は其の主業たるやの觀を呈せり」。お勤めでは儲からないから接客。商売、ショーバイだ!

「支那僧侶の墮落せるや久し」いが、「峩僧(峨眉山の僧侶)」は「獨り塵累を禪脱して、倶に語るべしと聞」き期待してやって来たものを、「豈圖らんや、峩僧又悉く俗惡、其の外形不潔汚穢なると同じく、心情亦陋劣、徒らに齋食、宿錢を貪るを知りて、讀經は勿論、中には一文字すら無き乞食僧あり」。「多大の期待を以て登山したる吾人は、此の點に於て、聊か、失望の嘆を發せざるを得ざりしなり」と。最初から期待しなければいいだけの話だ。

 「聊か、失望の嘆を發せざるを得ざりしなり」との気持ちは分からないわけでもないが、百聞は一見に如かず、である。「多大の期待を以て登山したる吾人」が単純過ぎただけの話。「昆崙の嶺、蜿蜒として東に走り、其の一支、將に支那の西境に入らんとして、一大靈山を作す」などといった大仰な形容が、どだい誤解も誤解、大誤解の元凶だろうに。《QED》