【知道中国 1984回】                      一九・十一・仲三

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(2)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 上塚は先ず「揚子江の政治的、經濟的價値は誠に偉大である。されば、列強は疾くより眼を此の地に注ぎ、鋭意利權の穫得、自己勢力の扶殖に是れ勉めて居る。即ち其の爭奪戰に加はるもの曰く、英、獨、露、佛、又曰く、日、米、白、即ち世界の列強は、蟻軍の甘きに附くが如く此處に蝟集し、或は條約に依りて不割讓を約し、或は鐵道敷設權に依りて地盤の鞏固を期し、或は表に正義人道の衣を纏ひて、内に恐るべき豺狼の牙を磨くあり、或は他國シンジケートの蔭に隱れて其の實權を握らんとする等、權謀術數交々行はれ、其の政策の變現亦端倪に暇なきを思はしめるものがある」と、彼が踏査した大正7(1918)年当時の長江一帯をめぐる列強角逐の概況を記す。

 そこで上塚が注視したのは、上海と遥か西部の甘粛省蘭州を結ぼうと構想された海蘭鉄道だった。

 「今から丁度七年以前」というから辛亥革命直後の時期に当たろうか。「未だ歐洲の風雲急ならず、支那問題が世界の視聽を牽いて居つた時、突如として海蘭鉄道借款が、明らかに露佛の後援下にある白耳義シンジケート代表者と革命政府との間に締結せられたりとの報道が傳はつた時、列強は如何に驚愕と嫉妬の眼を以て、之が論議に花を咲かせた事であらう」。

 「支那鐵道の研究に興味を持つて居」た上塚は「特に注意して其の將來を仰望し」、上海周辺調査の一環として海蘭鉄道東の起点である「揚子江岸の海門」に足を向けた。

 上塚に拠れば「海蘭鐵道は東揚子江口海門に起こり、通州、如皐、阜寗、清江浦等を經て徐州に出で、河南に入り開封、洛陽を過ぎて陝西省城西安府に至るものを東部線とし、西安より甘肅省蘭州に至るものを西部線とするものである」。じつは西部線には南北の2路線があって、「北部は咸陽より平凉府、安定を經て蘭州に至るもので車道を通ずべく南路は鳳翔、寶鷄、泰州、鞏昌、逖道等を經て蘭州に達するもので、路稍峻嶮、馬車を通ずる事が出來る」。南北両徒路は距離も工事の難易度もほぼ同じ。「全延長實に一千に百餘哩で支那中原の地帶を東西に通貫する一大鐵道である」。

 「露佛が此の鐵道に力を注ぐや、其の意とする所は、劈頭先づ海門も以て大上海の繁栄を奪ひ、漸次西北行して舊黃河に沿ふ千里の沃野の關鍵を握り、途中開封、洛陽等の要地を縫ひ、軍事、政治、經濟の中心たる西安府を扼して蘭州に至り、更に天山南路によりて烏魯木齊、喀什暍爾を經て一路直に中大亞細亞に出で『コカンド』に於て露國中央鐵道と相連絡し、遠く歐露に達せんとするにあつたのである」。

 ところが肝心のロシアが革命によって崩壊してしまった。まさに「今や時世も變遷し、露佛の偉圖は只一塲の夢と化し終つたのであるが、本鐵道の如きは支那自身の立塲より見ても政治上、經濟上最も重要なる鐵道たるを失はざるが故に、近き將來に於て必ず敷設完成の問題に逢着すべきは明かである」。

 たしかに「露佛の偉圖は只一塲の夢と化し終つた」が、「本鐵道の如きは支那自身の立塲より見ても政治上、經濟上最も重要なる鐵道」であることに変わりはない。であればこそ現在、中国とヨーロッパと結ぶ「中欧班列」と呼ばれる輸送ルートとして動いているわけだろう。じつは中欧班列の先陣を切って重慶とドイツのデュースブルクが結ばれた2011年は、奇しくも海蘭鉄道借款が纏まって1世紀後ということになる。ウルムチ(烏魯木齊)から西行して阿拉山口で国境を越え中央アジア、欧州を経てロンドンへ。一方、カシュガル(喀什暍爾)からパキスタンを南下してイランの国境に近い港湾都市のグワダールへ。

つまり中国と欧州を鉄道で結ぶ構想は、1世紀を経て実現したことになるわけだ。《QED》