【知道中国 1975回】                       一九・十・念四

――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(12)

田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)

日本の台湾統治は、日本のためであるべきではない。飽くまでも「臺灣の人民をして今世紀の世界的文明に同化し得べき素質を備へしめ」る道を歩めよとは、独立か大陸との統一か、現状維持か、あるいは飽くまでも台湾人の台湾を目指すべきかで揺れ続ける現在の台湾でも十分に検討に値する議論だろう。

殖民地の歴史を振り返って見ると、宗主国としての西欧列強は自らが至高と抱いていた諸々の価値を殖民地に根付かせようとしたことはなかった。宗主国のために資源の収奪に励みこそすれ、支配下に置いた「現地人」に対し自由、平等、民主主義、企業家精神や法治国家などといった近代社会の基本理念を植え付けることなど断固として拒否した。そればかりか、こういった考えを現地人が求めようとするなら、容赦なく徹底して弾圧を加えたはずだ。

だが田川はそうではない。「臺灣の人民をして今世紀の世界的文明に同化し得べき素質を備へしめ」ようというのだから、西欧列強による殖民地統治の“常識”に全く反している。「今世紀の世界的文明同化し得べき素質を備へしめ」ようというのだから、西洋列強の基準に照らすなら殖民地経営などと呼べるものではない。敢えて言うなら後進民族・地域の“人助け”であり“国助け”ではなろうか。

ここで思うのだが、台湾と同じような立場にあった朝鮮半島に対し、はたして台湾統治に対する田川のような構想の持主がいたのか、という問題だ。かりに田川に比肩するような眼差しが朝鮮半島を注視していたら、あるいは・・・とは思うが、相手は“恨(ハン)半島”の“恨(ハン)民族”だから、望むべくもないことだろう。

閑話休題。

台湾統治の際して先ず心掛けるべきは「臺灣の人心を安堵せしむること」であり、「其要旨は、一、生命安固、二、財産(例へば土人の所有する山林田園の類)の安固を期することに外ならない」。そのためには「島民の信任する官吏を擧げて事に當らしむる」を第一とすべきだ。

そのためには「島民の任用」することで、「臺灣人をして、日本人が厚く臺灣人を信頼することを知らしむる」ことができる。「政治上に言語不通の憾みなく、隨つて政令壅塞の恨みもなかるべし」。日本統治の本然の姿を理解すれば「今日までの如く譯が解らずに、只管に恐懼し、疑心暗鬼、危惧を増したるの憂もなくなり」、日本に対する理解を深めることで「(日本統治の方が)從前の支那の政治よりも進善せる事實と道理が解り」、日本を通じて「文明の大勢に逆行したる舊來の迷夢を一掃し」、「今世紀の世界的文明」に向かって邁進できる。

であればこそ「臺灣の官吏に臺灣の島民を任用するは、臺灣總督府」にとっての「緊急の務め」といえる。だが、(1)すでに総督府は、殊に末端各町村の担当者には島民を十分に任用している。(2)これ以上採用しようとしても「採用に足る學識あり、才幹ある、聲望ある人士」が少ない。(3)「異日黨衆相結びて不軌を圖り、却て日本に累」を及ぼさないか――などを理由に難色を示す向きがある。

これに対し田川は、(1)台湾では民族構成は複雑であり、それに伴って多種多様な言語が通用している。日本の統治の意図を周知徹底し、日々の行政を円滑に進めるためには、やはりマンパワーの不足は否めない。だから総督府は「其度量を開き、一定の方針を確立」すべきだ。(2)「土人の政は、外人の政に優れり」と言う。やはり台湾人採用を原則にして、不足分を「日本人を以てするの方針を執らんことを望」む――と説く。《QED》