知道中国 191回】                                    〇八・一〇・仲四

『古史弁自序』―「政治を行うて世を救うのが学者の唯一の責任」だそうだ・・・が―
『ある歴史家の生い立ち』(顧頡剛 岩波文庫 1987年)


20世紀初頭の中国の学界では、それまで伝統的に受け継がれてきた中国の歴史、ことに古代史の記述に嘘があるのではないか。時代が前後してはいないか。あまりにも非現実的で偽造されてはいないか。史実を取り違えてはいないか――と、「擬古・弁偽・釈古」の議論が大旋風を巻き起こす。この論争をリードしたのが、当時まだ30歳代の顧頡剛だった。


 白熱の議論を重ねた文章は全350篇で総字数は352万という膨大な規模。そこで顧頡剛は、これを『古史弁』と名づけ纏めて出版することを思い立つ。それまでの道徳律と同義語に近く、政治の理非曲直を論ずる“基準”に囚われていた中国古代史研究に新しい光を当てた『古史弁』の第一冊が出版されたのは1926年。以後、30年に第二冊、31年に第三冊、33年に第四冊、35年に第五冊、38年に第六冊と続き、41年の第七冊で終わる。

 『ある歴史家の生い立ち』は『古史弁』第一冊の冒頭に掲げられた「自序」を、顧と親交のあった平岡武夫が翻訳したものだ。「あとがき」で平岡は「中国語の『自序』は、司馬遷の史記における『太史公自序』のむかしから、多分に自叙伝の意味を持つものであって、日本語の場合とそのニュアンスが同じではない。顧氏のこの『自序』も、あきらかに自叙伝を意識して書かれている。これはまさしくひとりの歴史学者の生い立ちの記録である」と綴る。おそらく若き日の顧頡剛は、第二の司馬遷を目指したに違いない。

 「私のねがい」で説き起こされ、「読書人の家」「私塾と学校」「北京大学予科に入る」「芝居狂になる」「学派の争い」「国学の整理」「北京大学哲学科に入る」「歌謡の蒐集」「古典の再検討」「上海の商務印書館にて」「考古学・歴史学・民俗学の三方面の収穫」「私を育てたもの」を経て「まことの歴史を志すもの」で結ばれる『ある歴史家の生い立ち』は、中国における歴史の意味と歴史を窮めようとする学者の存在理由を教えてくれるはずだ。

 第一冊が出版された26年に蒋介石が国民革命軍総司令官に就任し北伐をはじめ、30年(第二冊)に共産党が瑞金に革命根拠地を築き、31年(第三冊)に満州事変が勃発し、33年(第四冊)に日本軍が熱河に軍を進め、35年(第五冊)に共産党が抗日民族統一戦線を提唱している。以後、第七冊が出版されるまでの数年間、西安事件(36年)、盧溝橋事件と第二次国共合作(37年)、親日派の汪兆銘による南京政権の成立(40年)と、まさに激動の中で『古史弁』の出版を続けた顧頡剛の《志》は、いったい、どこにあったのか。
 いま、現に生きている時代が混乱の極にあるにもかかわらず、なぜ遥かに遠い古代に中国の「本当の姿」を追い求め、気の遠くなるような試みを営々と続けたのか。

 顧頡剛は中国における学問への取り組み、学者たる者の日々の出処進退、読書人としての立ち居振る舞いを熱く語り、「身を殺して人を救うのは志士の唯一の目的」だが「政治を行うて世を救うのが学者の唯一の責任である」と自らに課したであろう尊い使命を披瀝する一方で、「賭け事・飲酒・悪所通い・茶屋遊びなど」「世間でおもしろいというもの」が「私の興味をかき立てるに足りない」といいながらも、「どれも私はやった」とヌケヌケと告白することも忘れてはいない。この掴み所のなさこそが学者たらんとした顧の真骨頂といえそうだ。だが学者であればこそ、こういった老獪で鵺のような姿勢を貫かない限り生き抜けない。それもまた、中国の政治と社会が抱える一面の真実というものだ。  《QED》