【知道中国 1863回】                       一九・二・念四

――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(3)

東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

 半世紀以上昔の学生時代、「日本寮歌祭」を見に行ったことがある。いわば功成り名を遂げたと自他ともに許すような老人連中が旧制高校時代を懐かしんで“弊衣破帽”で寮歌をがなり立てる、アレである。それはいいのだが、ともかくも肝心の寮歌を唱いだすまでの“前説”が長すぎる。日本寮歌祭とゴ同様に『中華三千哩』もイントロが長過ぎる。

 それはさておき、これからが本題の東亜倶楽部部員による報告である。

 先ずは神戸より上海の船旅で、「支那料理を食ひ、支那人の顔を見、支那てふものゝ一端でもふれ且、彼處より日本を眺めることが出來れば充分」と思いつつ、「平穩な、そして平凡な船旅がつゞく」。とはいえ時に「衣?用我等好暴威を逞しう」する。因みに「衣?用我等好暴威」に「ポケツトウヰスキー」と洒落たルビを振っている。

 やがて上海を望見する。「既にして甲板の上に、一橋會歌の合唱を旭光を浴びて始めた」。

「萬里を翔くる、暁の、/風、南滿の野に荒れて、/朝日、かゞやく楊子江、/江上の浪、躍るとき/ひるかへる我商船の、/日章旗、など勇ましき」と、ここまではいい。だが、「これはまるでこの機會のためにつくられたやうなものである。これからは毎年この熱叫をこの水に聲涸るゝまで聞かせてやりたいと泌々思つた」と続く。「この熱叫」はともかくも、毎年、「聲涸るゝまで聞か」されるなら、「この水」にとっては堪らないだろう。

 上海上陸するや、「こゝでは人の命のやすい」ことを知る。

 「西洋人共は自動車で轢殺しても、小供なら十弗位ですますといふ。支那や、支那や、何うして、汝は慷慨悲歌の士に富み乍ら、かく不甲斐なきやと云ひ度くなる」。「この同色人種の不甲斐なさは可憐を通り越して腹立たしくなる。自分は汝に、あらゆる哀れさ不甲斐なさを剔抉する意りだ。が、兄弟の諫めにさへ赫怒する人もある、自分がいふことを怒るかも知れない、怒つてもよい、軈て支那の文化を昂進し得るならば」。

 「哀れさ不甲斐なさ」に腹を立てる「兄弟の諫め」に「赫怒する」であろう。だが、それもこれも「軈て支那の文化を昂進」を切望すればこそ・・・これが当時の日本におけるビジネス・エリート予備軍の偽らざる思いというものだろう。

 こう強がってはみたものの、「排日の殘勢は到るところに見られた。虎刺拉を虞れてゞもあるが、この排日を一層おそれ城内は一切足を踏み入れなかつた」。足を向けなかった中国人街はともかくも、欧米人の住む租界の街路でも「(排日の)貼紙は方々に見かけた。泣告同胞、抵制日貨などゝいふのが一番多かつた」。

 上海の街を歩く。やはり百聞は一見に如かず。若者らしい率直な言辞を連ねる。

 「支那へ來ると、外國人が如何にも支那人を虐使して居るので嫌惡の情に堪えぬといふことを聞いた。成程そうである」。

 「(人力車夫は)人を乘せると行先も聞かず全速力で走りだす。その車に肥滿した亞米利加人なぞが杖で車夫の頭を叩き乍ら急がせて居るのを見ると衞生に害があるほどゾツとする。可哀さうにと思うはずには居られない、併し乍ら、偖て自分が乘つてみると車夫が狡くて過分と思ふ賃金でも承知せない。遣ればやる丈附け上つて、大きな裸身を躍り寄せ袖を捉んで離さない」。

 「可哀さうなんて思ふのは初め丈だよ。不潔で、狡猾で、當り前さ大概のものは愛想を盡して輕蔑したくなると」。

 「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ。同文同種なんか理由にしては薄弱なもんだ。政治家や實業家が浪漫的に又は功利的に親善を唱へたとて何になるものか國際道德ば個人間と違はあね。堂々と痛快に強食弱肉をやるがいゝやね」・・・確かに。《QED》