【中国 199回】 〇八・十ニ・初九
―「立て!!!飢えたるカミどもよ」―
『中国の神さま』(二階堂善弘 平凡社新書 2002年)
今年(08)のゴールデンウイーク、湖南省長沙で若き毛沢東が親友との革命談に熱く燃えたと伝えられる公園に立ち寄る。土産物屋の店頭には彼の生涯を描いたDVDや歴代共産党幹部をヨイショした伝記などが並ぶ。店内を物色していると、店の奥から漂う不思議な雰囲気。
そこで「関係者以外立ち入り禁止」の表示を無視して足を進める。もうもうたる線香の煙のなかに3メートル近い毛沢東の金色に輝く立像が浮かんだから、吃驚。やおらデジカメを構えると、背後から「撮影はダメ」と店主の怒声。続いて「写すとご利益がなくなる」。かつては「百戦百勝」で「人類の魂の導き手」と崇め奉られた「偉大的領袖」も、いまや土産物屋の商売繁盛のカミサマに成り下がった。いや成り上がった・・・。
伝えられるところでは河南省辺りの農村には毛沢東廟もあるそうな。さて中国ではカミサマはどんな姿で、どんな働きをしてきたのか――それが知りたくて、この本を開いてみた。
日本人は意外に中国のカミサマを知らないと説く著者は、庶民が篤く信仰するカミサマを並べ、その家族構成や交友関係、ゴ利益や弱点などを徹底調査してみせる。いわば中国のカミサマの戸籍台帳であり人事興信録でありWHO’S HWOだろうか。だが、「あまり一般の廟で崇拝の対象になっているのを見」ないし、「全国的に祭祀の対象となっているとはいいがたい」ので盤古・伏羲・女媧・蒼頡などといった神話上のカミサマは扱っていないし、また「儒教の聖人が『信仰の対象』となることが少な」く、たとえば孔子などは「庶民階層において気楽に祭祀できるような存在では」ないし、庶民からすれば「畏敬の対象とはなっていても、信仰の対象とはなってい」ないことから儒教のカミサマも論じてはいない。つまり、この本に登場するのは、いまなお中国庶民にとっては身近に在り、日常的に接している有り難くも親しみやすく人気も高いカミサマということになる。
絶大な庶民人気と信仰を誇る関帝、勇気溢れる凛々しい青年姿の二郎神、蓮華の化身といわれる少年の哪咜太子など超能力の持ち主が登場する一方、時に極く普通のオッサンと見紛うような女々しくもいじましいカミサマも見受けられる。カミサマにだって長所も短所もあり、悪妻もいる。親友も仇敵もいる。訴訟騒ぎを解決すべく裁判所も用意されている。玉皇大帝を頂点に巨大な官僚機構がある。カミサマも所詮は役人。出世競争に鎬を削り、左遷に泣く場合もあるから不思議だ。こうみてくると中国のカミサマの世界は、じつに人間的。なにやら庶民が生きる現実社会と大同小異で、地続きで繋がっているように思えてくる。その点、小難しいリクツに捉われることなく親しみやすい面もある。
ところで東岳大帝のように霊験あらたかな霊山=神も、なんと衣冠束帯姿でヒトの形をしていた。どうやら中国ではカミサマでもヒトの姿をしていなければいけないらしい。だが日本では、たとえば浅間神社のご神体は富士山だが、富士山というカミサマにヒトの姿を求めはしない。富士山は飽くまでも見たままの「富嶽」である。ありのままの山川草木の姿をご神体と崇め信仰の対象としてきた日本と、中国は大いに違う。この辺に、カミサマに対する日中双方の庶民感覚にズレがあるようだが、このズレは限りなく大きいはずだ。
こんなカミサマの世界で新参者の毛沢東が場違いにも、「立て!飢えたるカミどもよ」「造反有理」「革命無罪」なんて勇ましい掛け声を張り上げてはいないと思いたい・・・が。 《QED》