【知道中国 958】                         一三・八・念八

――「お酒は飲み放題である」・・・これを太平楽という(柳田の13)

「北京」(柳田謙十郎 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

亀田から「牛皮の手さげカバンなどをおみやげにいただいて」ホテルに戻ると、日本からの一行は「みんなあつまって中国新憲法の学習会」である。それというのも「田舎でも都会でも、男も女も、年よりも青年も、すべてのひとが熱心」に新憲法草案の学習会に参加している情況を前に、郷に入れば郷に従えとなった次第だ。

かくて学習会を経て、柳田は「中国革命もすでにここまでくればもう一応完成の域に達したというべきであろう。あとは国民の実質的な努力によってその内容をゆたかにするという仕方がのこされているばかりである」と結論づける。「ここまでくればもう一応完成の域に達したというべきであろう」などと実に鼻持ちならない“上から目線”である。だが、その後の毛沢東の個人的野望と激烈な権力闘争とに引きずられ激動を繰り返した中国社会を考えれば、「国民の実質的な努力」などという表現が如何に虚しい美辞麗句に過ぎなかったかが判ろうというものだ。とはいえ「中国革命も・・・もう一応完成の域に達した」という柳田の考えが、当時の日本の親中的空気を煽ったであろうことは充分に想像できる。

7月27日、「午前法政学会から招待をうけ、この方面の学者たちと懇談」し、①建国以前の旧中国における「憲法は唯人民をごまかすためばかりにつくられていた」から、国民は全く関心を示さなかった。②「今度の憲法はほんとうに自分たち自身のものであるというので、全国民が真剣になって研究している」。③かくて「真の民主政治というものが実現されているわけである」。④18歳以上のすべての公民による民主的選挙によって「選ばれた人びとは何れもきわめて優秀な、人格の高潔な人びとであり、世の中の人から心からの信頼と尊敬とをうけている人たちである」――と説明され、すっかり“真”に受けてしまった。

かくて「こんな美しい話をきいているとまったくよだれのたれるほどにうらやましくなる。日本がこんな状況になるのはいつの日のことであろうか」と“羨望”の眼差しを送った後、「このままではよくなるどころかむしろわるくなるばかりである。そのためにはやはり中国のように社会構造が根本から変えられて、くさり切った金持が支配するのではなく、健康な働く人々自身の国家になるのでなければなるまい」と、日本を徹底して腐す。

その日の午後、中国紅十字会から急遽招請を受ける。予定外の日程に何の準備もないままに出かけると、先方は「何となく物々しい感じ」で待ち受けていた。しばし和やかな歓談が続いたかと思うと、会長の李徳全女史が「突然身ずまいを正して立ち上が」り、「やや切り口上かと思われるような口ぶりで『今日は重要な二つの問題について特にお話し申上げたい』と話し出される」。剣道で言う先の先。日本側が身構える前に鋭く打ち込んできた。

「静かに頭を下げてきいている」柳田らに向かって李が語った「重要な二つの問題」とは、①「中国人民解放軍の寛大な政策によって」、近々戦犯軍人を釈放する。彼らの帰国に際し、「本会はこれにできるだけの援助を与える用意がある」が、日本側での対応を「柳田先生にお願いしたい」。②「もし日本がわれわれを招待してくれる用意があるならば、われわれはただちにこれに応ずる用意がある」――であった。

中国側はゴ陽気気分の日本側の虚を就いた。かくて返礼の挨拶に立った柳田は「低い小さな声でボツボツとかたりはじめているうちに、いい知れない感動が胸に迫って熱い涙がにじんで来て声がつまって言葉も出なくなる」。こうなると、もはや完全に中国側のペースだ。柳田は押っ取り刀で宿舎に帰り中国側の意に沿った形で日本側に電報を打つ。

やがて帰国した「中国を侵略して戦犯となり中国の寛大政策により帰国した者」によって結成された中国帰還者連絡会が、贖罪論を掲げ中国の対日政策に沿った活動を始める。

中国滞在中、柳田の酒量はどれほどに達したのか。幇間外交・・・先ずは大成功也。《QED》