【知道中国 959】 一三・八・三○
――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らなすぎた」(安部の上)
「新中国見聞記」(安部能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
昭和3年秋に北京を訪れた安部は「支那人の個人としての生活力の強さ、その弾力の豊富さは、支那人をして圧さえればひっこみ弛めれば膨れしめる。支那人はこの点に於いて無気味な不死身の性を持って居る。けれどもこれは同時に強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質ともなって現われるであろう。何といっても国土が広く、資源が豊かで、人間の生活力が強い支那の前途は実に我々の前に置かれた興味ある謎でなければならない」(「瞥見の支那」)と記した。
安部は貴族院勅撰議員、旧制第一高等学校校長(1940~46年)、文部大臣(46年)、学習院院長(48~66年)を歴任。戦後は岩波書店を拠点に平和問題懇話会を主宰し、現在に続くガラパゴス化した総合雑誌『世界』の創刊当時の代表責任者を務めている。一方、48年には白樺派や漱石・鴎外・西田幾多郎門下を糾合し、占領下で呻吟する日本文化を防衛すべく雑誌『心』(~81年)を創刊するなど、リベラル保守派の象徴的存在だった。
そんな安部ゆえに中国は狙いを定めたに違いない。かくて昭和3年の北京旅行から26年が過ぎた昭和29(1954)年、「日中友好協会と通じての・・・国慶節招待」となった。
安部は「新中国に対して・・・耳学問も読書知識もなかった」が、「新中国を見てきた少数の人々」から「中国の面目一新と中国官民の緊張ぶりを伝える声は聞いた」うえに、「その中の一人の若い心理学者は、『大内(兵衛)さんよりも安倍さんがいって見て来るがいい』ともいった」そうだ。
そこで安部は「これは新中国が、より進歩的な大内君よりもより保守的な私を教訓する所が、より多いと考えたからであろう」と考え、この招待に応じる。大内も招待者名簿に名を連ねていたが、なぜか訪中していない。「教訓」の2文字が象徴的だ。
「より保守的な私を教訓する所が、より多い」と記すからには、安部は中国側の意図を承知したうえで訪中したのだろう。「私はこれ(国慶節招待旅行)によって新中国の存在と動向を深刻に、又今までよりは遥かに具体的に全体的に印象し得たことを喜びとして居る」と綴っているところをみると、中国側の狙い――安部が戦前に抱いた中国認識を棄てさせ、安部をテコにリベラル保守派に親中感情を植えつける――は、ドンピシャだったようだ。
出発前、「私は先入見も予備知識も持たずに、無理にも虚心坦懐で新中国を見て来ようと決心せざるを得なかった」。だが戦前の中国旅行で冒頭に掲げたような認識をえている以上、「中国に対して何等の先入見を持って居なかった」わけではないはじだ。だが「できるだけひねくれず、裏面を窺おうとする興味に執われず、又周囲の感激や感傷に引きずられず、自分が見たことを見たとして、聞いたことを聞いたこととして、又疑いを疑いとして伝えたいと思」いながら旅立つことになる。
安部は「新中国を見るにつけても、私が中国の革命史、ソ連と中国との関係、中国から手を引く前の中国と米国との関係及び交渉、太平洋戦争中及び戦後今日に至るまでの、日本を中心とする国際的外交関係についての知識の欠無を著しく感じた」うえで、「今や新中国に対する日本国民の感情は、傾向というよりもむしろ傾倒といった方がよいという状態である。左翼の連中がそうなるのは当たり前だが、この傾向にはそれ以上の国民的感情があるらしく思う」と、当時の日本人の中国に対する素朴な感情を忖度してみせた。
昭和27(1952年)、日本は中国大陸での戦争状態に終止符を打つべく、台湾に逃れた蔣介石率いる国民政府との間で日華平和条約を締結する一方、新中国、つまり中華人民共和国を国家として認めない姿勢を打ち出した。そのことを指し、安部は日本人の素朴な心持として「台湾を相手にするだけでは充たされないのではないか」と記すのであった。《QED》