【知道中国 960】 一三・九・初一
――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らなすぎた」(安部の中)
「新中国見聞記」(安部能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
安部は「日本は散々中国をいじめてきたにも拘らず、日本人は中国なしでは生きてゆけない。戦争後十年間中国と離れて生きて来たということに、日本人は利害の上ばかりでなく心にさびしさを覚えて居るのではないか」とした後、だから日本人の「心持」として「台湾を相手にするだけでは充たされないのではないか」と記す。
安倍の記す「台湾」は半世紀に亘って日本が領有し社会経済開発と民生の向上に努めた台湾ではなく、国共内戦に敗れ台湾海峡を渡った蔣介石政権が最後の砦とした台湾であり、内外に向けて「自由中国」を僭称・喧伝した中華民国を指しているはずだ。
ここで蛇足気味だが、安倍をして「台湾を相手にするだけ」となった日華平和条約(中国語原文で「中日和平条約」)が結ばれた昭和27(1952)年前後の情況を振り返っておく。
日本が「中共」と、アメリカが「コミュニスト・チャイナ」と呼んだ中華人民共和国が誕生したのが昭和24(1949)年10月。一方、中国大陸に居場所を失った蔣介石率いる国民政府は台湾に渡り台北を臨時首都として中華民国維持を画策したものの、ワシントンが蔣介石政権に対し強い不信感を表明したことで、蔣介石政権は進退に窮した。
だが昭和25(1950)年6月に朝鮮戦争が勃発し、アメリカが強硬な反共政策を掲げコミュニスト・チャイナ封じ込め政策に転じたことから、蔣介石政権は念願の「大陸反抗」も夢ではないとの強気の姿勢に転じた。大陸に攻め入って共産党政権を打倒し、改めて中華民国による全土統一を図ろうというのだ。
昭和26(1951)年9月、対日参戦55ヶ国中、中華民国、インド、ビルマ、ユーゴスラビアを除く51ヶ国との間で日本は講和条約を結ぶ。もちろん戦争時、地上に存在しなかった中華人民共和国が対日講和を論議する会議に参加しているわけがない。安部らが集った平和問題懇話会は、確かアメリカを中核とする西側の国々との現実的な講和を「片面講和」と否定的表現で呼ぶ一方、ソ連など東側も参加した形を「全面講和」と喧伝し、片面講和否定の論陣を張ったはずだ。当時の日本を取巻く内外情勢から判断して全面講和は余りにも非現実的だったことはいうまでもない。日本は復興への後ろ盾としてアメリカを選んだ。
だが当時の吉田首相は、講和条約締結直後の10月末の国会で、「求められれば上海に中共との通商事務所の設置も可」「日本は講和の相手を選択する権利を持つ」と、中華人民共和国に対する柔軟姿勢をみせる。その直後、特使として来日したダレス国務長官との会談を機に、吉田政権は中華民国との講和条約締結へと踏み出していった。
日華平和条約会議(中国語で「中日和会」)の結果、昭和27(1952)年4月、「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する」を第一条とする日華平和条約が台北で署名されているが、ここで問題になるのが中華民国の「範囲」だろう。
日本側は交換公文で「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」と表明し、中華民国側は同意議事録に「(日本側が主張する)『又は今後入る』という表現は『及び今後入る』という意味」に解し、これに日本側は「中華民国政府の支配下にあるすべての領域に適用があることを確信する」と応じている。
交渉当事者双方が蔣介石による「大陸反攻」を信じていたか否かは不明だが、日華平和条約が「大陸反攻」の将来に含みを持たせていたことは想像できる。ちなみに蔣介石は「多額の賠償を取り立てることは、戦後の日本の生命を奪」い、「赤色帝国主義が日本を狙っている」現状からして、「日本が強力な反共国家であってくれなくてはならない」との理由を挙げ賠償を放棄している(『蔣介石秘録(下)』改訂特装版 サンケイ新聞社)――以上が、「台湾を相手にするだけでは充たされない」「心持」の背後の内外情勢であった。《QED》