【知道中国 961】 一三・九・初八
――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らな過ぎた」(安部の3)
「新中国見聞記」(安部能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
安倍が中国招待旅行に応じた昭和29(1954)年は。サンフランシスコ対日講和条約・日米安全保障条約が調印された3年後で日華平和条約調印の2年後に当る。中国における主だった国際的な動きを見ておくと、北京でのアジア太平洋地域国際会議開催(52年12月)、周恩来・ネール会談での「平和五原則」に関する共同声明(54年4月)、インドネシア・バンドンにおける第1回アジア・アフリカ会議への参加(55年4月)、周恩来によるアジア太平洋諸国集団安保条約提唱(55年7月)など、中国は周恩来を先頭に積極的に“平和攻勢”に出ていた時期だ。付け加えるなら朝鮮戦争休戦協定の締結は53年7月。じつは、その5ヶ月前の53年2月、韓国は竹島の領有を一方的に宣言している。
「日本人は中国なしでは生きてゆけない。戦争後十年間中国と離れて生きて来たということに、日本人は利害の上ばかりでなく心にさびしさを覚えて居るのではないか」との呟きに、国際政治の桧舞台で“平和”を掲げた周恩来の派手な振る舞いを前に、講和条約にせよ安保条約せよ、致し方ないとは言えアメリカの傘の下に身を寄せざるをえなかった当時の日本政府に対する安倍の消極的な抵抗姿勢が感じられないでもない。
安倍は「台湾を相手にするだけでは充たされないのではないか」とした後、突然、「しかしそれにしても我々日本人は余りにも中国を知らな過ぎた」と“反省の弁”を記し、「私は今の日本人の新中国への感情を単に迎合的、雷同的、感傷的だとのみは思わず、その中に自然と真実とを認めるのであるが、同時にこの感情がしっかりした中国の認識のうえにはぐくまれることを熱望するのである」と続けた。
安倍が昭和3年に「瞥見の支那」を著した自らをも含めて「我々日本人は余りにも中国を知らな過ぎた」と主張しているのかは不明だが、少なくとも当時から現在まで続く中国認識の歩みを振り返ってみるなら、「この感情がしっかりした中国の認識のうえにはぐくまれることを熱望」した安倍だったが、その「熱望」は空回りしたまま。現実的には「迎合的、雷同的、感傷的」に過ぎたと思う。その根底に、中国側の巧妙な対日与論工作があったことは想像に難くない。米川も、柳田も、安倍も、中国側の与論工作の舞台上で舞い踊ったということだろう。もちろん彼らが意識するしないにかかわらず、であるが。
昭和29(1954)年9月28日に羽田を発った安倍らは香港を経由して広州入り。1泊の後、29日夕刻に北京に着いた。「着くとすぐ周総理の案内状を渡されて、北京飯店のカクテルパーティーに臨んだ」。いよいよ招待外交の本格始動である。
「欧亜の共産圏の十一ヵ国の代表は固より、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカにわたって五十九ヵ国から、色とりどりの文化団体や婦人団体が集まって来、その数凡そ千五百」。これに中国側参加者を合わせ2000人余。参加者を前に挨拶を済ませた周恩来は「我々のところへも来て、『アリガト』といって握手した」。安倍が李徳全、廖承志(原文では「寥」)、「魯迅夫人許広平女史」、京劇の名優である梅蘭芳などに紹介され歓談していると、「暫くして毛沢東主席が朱徳副主席や劉少奇、宋慶齢の諸氏をつれて出て来た」。
やがてダンス、それからカクテル、さらに対外文化協会や北京大学学長などに「萃華楼という別席につれられて、夕食の御馳走」である。躍らせ、呑ませ、食わせ、ヨイショ・・・遠来の客人を籠絡すべく、まさに至れり尽くせり、である。
9月30日の国慶節慶祝大会に参加し、10月1日の国慶節の祝賀大パレードは天安門の「左右にしつらわれた、ぐるりの壁との調和を破らぬために丹色に塗られた露台の上で見物した」。「こういうお祭りが国々にとって政府と民衆にとって必要なことは勿論だが」としながらも、安倍は「私は民衆や学生と共に興奮する気持ちにはなれなかった」と呟く。《QED》