【知道中国 962】 一三・九・十
――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らな過ぎた」(安倍の4)
「新中国見聞記」(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
国慶節後、北京、雲崗、西安、上海、杭州、広州を経て香港2泊の後、10月26日に羽田に戻っている。もとより招待旅行であるから、約1ヶ月の滞在期間中の日程が、安倍の希望のままに組まれたわけではない。それでも安倍の「毛首席と少時間対談したい」という希望を除くと、「時間と交通の許す限りは、殆どすべて我々の希望を容れてくれた」とのことだ。(なお、引用文中の「毛首席」、及び「主席」は原文のまま)
それにしても「少時間」とはいえ安倍と毛沢東との「対談」が実現していたなら、さぞや面白かっただろうが、共産党独裁体制下の社会主義路線を驀進していた当時の情況からして、毛沢東には安倍と対談している暇などなかったということだろう。
かくて安倍は「毛沢東首席もソ連のスターリンに倣ってか倣わずでか、次第に偶像化されつつあるのは事実である」と指摘し、「我々一行の漫画家近藤日出造君も、毛沢東が下手な画像や彫像で、中国の到る処に自分の姿をさらして居る無神経を不愉快がって居た」と紹介した後、「中国やソ連の如き大国で、中央政府の中心シムボルとしての首席や首相の印象を、人民の間に強く彫りこむためには、こういう俗悪な『これでもか、これでもか』も必要だろう」し、「全体主義国家がその全体の纏まりを強めるためには」、「毛首席自身が好むと好まざるとに拘らず、彼の偶像化も亦已むえを得ないと思った」と、全体主義国家としては指導者の偶像化は必然の道であると説く。当然ながら、新中国は全体主義国家。
その後、大内兵衛が「マルクス学者ではない」と批判する郭沫若に会った際、安倍は毛沢東と会談できたら「共産圏平和攻勢に疑惧を持つことを述べて、主席の平和に対する考えと決意とを親しく聞くつもり」であり、併せて「まじかに毛主席の人物観察を試みた」かったと語ると、郭は「(毛沢東は)実に先の見える人であり、私だちは安んじて主席の後に付いてゆくばかりだ」と応じている。
郭沫若が「マルクス学者ではない」のかどうか。そんな瑣末なことは、どうでもいい。ただ文革勃発当初、「私のこれまでの著作は塵芥だ。焚書になって当たり前だ」といった意味を広言し、毛沢東に媚び諂った事実に基づいて判断すれば学者ならぬ学商で、毛沢東王朝の知的幇間だった。いや有態にいって、安倍が戦前に感じた中国人の「強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質」の体現者だ。
中国滞在中での経験を基にして、安倍は次のような毛沢東像を描いている。
■「彼は現政府の要人中一番古典に熟し、昔の歴史もよく知っているということである」
■「彼には多少哲学的思索的な書物もあるが、それについては私はまだ知らない」
■「彼が謙遜を力説して居ることは事実らし」い。
■「何れにしても彼が今相当の学識と識見とに兼ねて徳望があり、幅が広い暖かい人物であって、革命運動が彼に於いて中心人物を見出し得たことは、中国の幸福と思われる」
かくて安倍は「私は毛首席百年の後も、彼が中国人民に永く敬慕されることを祈るものである」とした。だが、安倍が訪中した50年代半ば以降の毛沢東の暴君政治――反右派闘争、大躍進、社会主義教育運動、文革――を振り返り、中国人民が被った惨劇・惨禍の数々を思えば、「彼が中国人民に永く敬慕される」とはいえないだろう。
毛沢東は、54年の安倍訪中以後に本格的に暴君化する。だから訪中時点で安倍が「革命運動が彼に於いて中心人物を見出し得たことは、中国の幸福」で、「彼が中国人民に永く敬慕される」と記したとしても無理からぬこと。だが、そういった毛沢東像――それは中国側のプロパガンダによって描かれたもの――が、以後の保守リベラル陣営の毛沢東や中国に対する見方を大いに歪めたことは否めない事実だろう。招待外交大成功、である。《QED》