【知道中国 963】 一三・九・仲二
――「それにしても我々日本人はあまりに中国を知らなすぎた」(安倍の5)
「新中国見聞記」(安倍能成 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「毛沢東氏と共に周恩来氏にも会いたい希望を出しておいた」安倍の念願が叶って、日本の国会議員団と一緒だったが、「彼と会見し談話すること2時間半に及ぶことができた」。その席で、「驚くべき率直」で「柔軟というよりはむしろ奔放と自由とを感じ」たが、「優雅とまでは感じなかった」と、周恩来の印象を綴っている。
その席で発言の機会をもった安倍は、「私一個の私見としてお聞き取りを願います」と断わりながら、「我々文化学問に携る者が、日本軍国主義者の無知無謀に対しこれを阻止できなかったことを考えると、我々は『中日文化の深き関係』という繰り返さる言葉に対して、深い恥を感ぜずには居られせん」と語った後、「アジアと日本の平和が偏に中国と日本の平和的意志にかかって居ることを考えるにつけ、中国の直接間接なる平和的協力を願ってやみません」と続けた。だが、この時、「日本よりも一層複雑であり、ずうずうしくて物を気にしない」支那人は、「強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質」の持ち主だと綴っていた戦前の自らを思い描くことはなかったのだろうか。あるいは「文化学問に携る者」として「深い恥を感」じていたとでもいうのか。
一方、安倍はソ連が「過去の侵略地を悉く中国に返し、中ソ同盟を結んで交友を深めていることはまことに賢い政策であり、中国にとっても亦けっこうなこと」ではあるが、「ソ連が終戦間際に俄に千島を攻略したことは、実に狡猾なやり方であり、私はソ連を信用することができません。これはまことに無遠慮な言葉でありますが・・・・・」と、不信感を顕わにしている。
ここで問題にしておきたいのは、敗戦時混乱期の満州におけるソ連軍の鬼畜にも劣る所業に何ら言及していないことであり、安倍がソ連にとっては「賢い政策」、中国にとっては「亦けっこうなこと」とする中ソ同盟について、である。
ここでは中ソ同盟に就いて考えてみたい。
建国直後の1949年暮、毛沢東は僅かな随員を引き連れてシベリア鉄道でモスクワに向かった。スターリンに対し、45年8月15日前日の14日に蔣介石の国民政府がソ連と結んだソ連側に有利すぎる内容の中ソ友好同盟条約の改定を直談判するためだ。日本との戦争が終結した後に共産党との内戦は必至の情況下で、毛沢東ら共産党へのソ連の支援を何としてでも避けたかった蔣介石はスターリンの望むがままに、満州、外モンゴル、新疆におけるソ連の利権を大幅に認め、半ばソ連の植民地として“献納”している。その中ソ友好同盟条約は破棄され、50年2月に新たに中ソ友好相互援助条約が結ばれたが、毛沢東の努力も虚しく、満州と新疆におけるソ連の特権的利権を認めざるを得なかった。当時の中ソの国力、国際社会における毛沢東とスターリンの影響力の差を考えれば、ソ連の要求を丸呑みせざるを得なかったことは致し方なかったことだろう。
だが後年、毛沢東は「中ソ友好相互援助条約によって、東北(満州)と新疆はソ連の望むがままに植民地状態に置かれてしまった」と苦々しく語っていたということだから、ソ連にとっては「賢い政策」だったとしても、やはり中国にとっては「亦けっこうなこと」ではなかった、と看做すべきだ。
中ソ同盟をめぐるこういった情況、いわば国際政治の厳しい現実を生き抜いている周恩来にすれば、日本の「文化学問に携る者」たる安倍の挨拶は、それが如何に中国寄りのものであろうと、寝言・戯言に聞えたに違いない。“あまちゃん”ならぬ甘チャン、である。
中国人は「強い力の前にはちぢみ上がり、相手が弱いと見ればむやみにのさばるという厭うべき性質」の持ち主だと喝破していたのは、安倍だったはずだが・・・。《QED》