【知道中国 965】 一三・九・仲六
――「四川省産のオオムが・・・成都官話で『毛主席万歳』と叫ぶ」(桑原の1)
「中国の演劇」「四川紀行」(桑原武夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
桑原武夫(明治37=1904年~昭和63=88年)は元京都大学教授(フランス文学・文化研究)で文化勲章受章者。中国における食人の歴史を実証的に研究したことで知られる京都帝国大学教授の桑原隲蔵は父親。桑原は、いわば京大文化で純粋培養された知性を引っ提げて戦後の論壇に颯爽と登場し、その“ど真ん中”を闊歩したリベラル派文化人の代表といったところだろう。
だが、こと中国関連となると、噴飯もののトンデモ発言を連発している。先ずは“支那学の泰斗”たる父親の顔にドロを塗りつけた不肖の息子、といっておこうか。
桑原の訪中は昭和30(1955)年である。55年といえば、日本では戦後の日本社会の大枠となった55年体制が発足し、中国では周恩来がアジア太平洋諸国の集団安保条約を提案する一方、文芸批評家の胡風批判が全国で巻き起こされた。かくて毛沢東思想で全国を徹底統制することで独裁体制確立への道を驀進しはじめたのである。
台湾海峡では台湾側の金門島への砲撃がはじまり、台湾防衛司令部を設置することでアメリカは台湾(蔣介石政権)防衛の立場を鮮明にした。アジアにおける冷戦構造・米中対立の構図ができあがってゆく。
桑原は「中国では芝居は七つみた」と記すが、最初に看た「北京人民芸術院での『海辺劇戦争』(四幕五場)」は、「中国人民解放軍福建軍区政治部文工団の集体創作による、台湾解放問題をふまえたスパイ劇」だった。
桑原は「私の記憶に残ったせりふがある」として、こう続ける。
「スパイの情婦が、周囲の状況が悪い、この辺で足を洗おう、蔣介石はもうダメだというと、男が答えて、わしも蔣介石がつまらぬ弱い男だということは百も承知している、しかし忘れてならないのは、蔣のうしろには大アメリカがついていることだ、アメリカはすばらしく強いからね、というところだ。ここで満場の観衆が何ともいえない一種の嘲りの笑い声を出すのが、極めて印象的だった」。
毛沢東の戦略にとって芸能、わけても芝居は闘いを勝利に導くための最も友好な手段の1つだった。芝居を使って娯楽に飢えた人民を教育(=洗脳)してしまおうというのだ。今風に言うなら巧妙極まりないメディア戦略であり、「筋は簡単で、台湾海峡に面するある場所で、スパイの一味を人民と軍との強力で取り押さえるというだけの」この芝居も、台湾に対する統一工作の必然性・正当性を徹底的に教育し、蔣介石が台湾にしがみついていられるのも、憎んでも憎み足りないアメリカ帝国主義が背後から支えているからだということを、人民の脳髄に深く刻み込むためのものなのだ。
だから、観衆に「蔣介石がつまらぬ弱い男だということ」を植え付けることで「一定要解放台湾(必ずや台湾を解放するぞ)」という意識を共有させ、「一種の嘲りの笑い声を出」させることによって「一定要打倒美帝国主義(断固としてアメリカ帝国主義をだとうするぞ)」の決意を持たせようと、筋も演技も巧妙に仕組まれているのである。
いわば観衆は全員「右へ倣え」で、同じ反応を示さなければならないわけだ。ここで、いや必ずしも「蔣介石がつまらぬ弱い男」だとは思わないなどと疑問を顔に顕したり、アメリカ帝国主義と非難するが日中戦争中は大々的に中国援助をしてくれたではないかなどと口に出したり、毛沢東が「アメリカ帝国主義は張子の虎」といっているからには「アメリカはすばらしく強い」なんて台詞は間違いだなどと首を傾げることは、断固として許されないのだ。やはり桑原は、中国における芝居の働きがサッパリ判ってはいなかった。
かくて毛沢東のメディア戦略に乗せられたまま、芝居見物を続けることになる。《QED》