【知道中国 967】 一三・九・二十
――「四川省産のオオムが・・・成都官話で『毛主席万歳』と叫ぶ」(桑原の3)
「中国の演劇」「四川紀行」(桑原武夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
じつは桑原は、「ソ連科学アカデミと中国社会科学院の招待」に応じて茅誠司会長を団長とする日本学術会議が組織した15人の訪問団の一員としてソ連訪問からの帰路に訪中したわけである。再び指摘しておくが、一行が旅行した昭和30(1955)年は、保守合同により自民党が成立し、自民党対社会党の「55年体制」が始動した年であり、まるで55年体制の発足にタイミングを合わせるかのように、中国は日本学術会議という的に招待外交の矢を放った。つまり、両国共産党による明白なる平和攻勢・宣伝工作・洗脳工作だったわけだ。
「ソ連の帰りに中国を訪問することがきまったさい、私はぜひ四川まで行きたいと思った」。それというのも、「小学校へ入る前から、毎晩父親の口から聞いた『通俗三国志』・・・その舞台をなす蜀の国」であり、「私が最も愛する中国の詩人杜甫が閑居した成都」があるからだ。
先ず訪れた重慶は、日中戦争中に日本軍の猛攻を避けるべき首都の南京を放棄した蔣介石が逃げ込み、アメリカの支援を支えに命脈を保った揚子江上流の崖っぷちにへばりつくように築かれた都市である。ここを日本軍は猛爆した。「重慶爆撃」である。
桑原は「(重慶)滞在中、誰一人として日本軍の空襲ということばを使ったものはいなかった」と記すが、重慶の人々の記憶から日本軍の爆撃は薄れてしまっていたのか。それとも日中友好を最優先すべく、中国側が重慶爆撃にかんしては緘口令を布いていたのか。いずれかは不明だが、街の中央に位置する中蘇友好大楼と名づけられた巨大建築を例に、「先進国ソ連に学べ、というのが今日の中国の国是であり、どこの街にも村にも中蘇友好協会はある」と、当時の中ソ蜜月関係を記している。因みに、一行の旅行から半年ほどが過ぎた1956年2月、フルシチョフがソ連共産党大会で行ったスターリン批判を機にはじまった中ソ対立は、69年の国境における武力衝突への拡大していった。
さて重慶(一文字で「渝」)と成都とを結ぶ成渝鉄道の車中で、桑原の妄言が炸裂する。
桑原は別に発表した『ソ連・中国の旅』(岩波書店 1955年/2008年復刻版』で「一九五二年に開通した成渝鉄道によって成都まで十四時間。四十いくつかのトンネルがあり難工事だったらしいが、わたしたちは軟席寝車でらくらくいった。極上の無煙炭をたいており、窓をあけっぱなしてねたが、シーツは汚れていなかった」と、「極上の無煙炭」までをもヨウショしているが、ここからが抱腹絶倒だ。
「一輛に寝台を作るボーイが二人、お茶を汲むボーイが一人、床のリノリュームを一時間ごとにきっちり拭くきに掃除婦が二人、そのほか腰にピストルを着けた巡警が一列車に四、五人」と、乗客以外の係員を数え、「中国には泥棒はいない。第一こんなにたくさん係員がいては、忍術使いでもなければ列車泥棒はできまい。新中国のやり方は単に道徳を高唱するだけでなく、社会的、経済的に悪徳を阻止する処置がとられている。列車の係員が多いのもその処置の一つであろう」と綴っている。
だが考えてみれば列車1輛に、ボーイやらピストル所持の巡警やら“その筋の者”が10人も乗り込んでいるなら、それだけ厳戒態勢にあるということだ。「中国には泥棒はいない。第一こんなにたくさん係員がいては、忍術使いでもなければ列車泥棒はできまい」ではなく、じつは「こんなにたくさん係員」を張り付けておかなければならない情況が当時の中国社会にあったということに、桑原は思いを致すことはなかったのか。鈍感でノー天気。
「新中国のやり方は単に道徳を高唱するだけでなく、社会的、経済的に悪徳を阻止する処置がとられている」とするが、当時は「道徳を高唱するだけで」は「社会的、経済的に悪徳を阻止する」ことなど不可能であり、だから力で封じ込めるしかなかったのだ。《QED》