【知道中国 968】 一三・九・念二
――「四川省産のオオムが・・・成都官話で『毛主席万歳』と叫ぶ」(桑原の4)
「中国の演劇」「四川紀行」(桑原武夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
この時、1輌に何人の乗客がいたのかは不明だが、全部で10人前後の係員である。掃除婦であれ、その筋から派遣されていると考えるのが常識というものだ。そのうえ、客のなかには当局から派遣された私服の監視役もいたはず。まさに車内は厳戒態勢である。これでは泥棒したくてもできるわけがない。まともな大人なら「中国には泥棒はいない」のではなく、泥棒やら不穏分子が多いから厳戒態勢を布いていると考えるべきではないか。
そこで当時の中国における政治情況を概観してみると、55年2月には著名な文学者の胡風が共産党の学術・文化政策を全体主義に過ぎると批判したことから「反党分子」として粛清され、スターリンを後ろ盾に「東北王」として東北三省に君臨し、国家副主席兼国家計画委員会主任を務めていた高崗と党中央組織部長で上海の党委員会を掌握していた饒漱石が「反党同盟の陰謀を企図した」との罪状で、これまた粛清されている。
胡風、高崗、饒漱石に対する厳しい措置は建国後初めて示された党最高幹部に対するものであり、その後に続く血で血を洗う権力闘争の幕開けでもあった。であればこそ正常な感覚で街を歩いたなら、桑原の眼にも緊張する社会情況が見て取れたはずだ。
にもかかわらず列車内の厳戒態勢の背景も読み取れず、「中国には泥棒がいない」と感嘆の声を挙げ、さらに成都の人民公園では、「北京の北海公園と同じく、たくさんの金魚が育成されているほか、ここには多くの小鳥、ことに四川省産のオオムが集められており、番人が合図をすると、成都官話で『毛主席万歳』と叫ぶ」などと戯言を口にする始末だ。まことに以って度し難い知性、いや痴性といわざるをえない。
ここで百歩譲って、それほどまでに中国側の招待外交は巧妙だったと桑原を弁護しようとも思う。だが、フランスの代表的な中国・アジア問題専門のジャーナリストであるパトリック・サバティエが自著の『最後の龍 鄧小平伝』(花上克己訳 中島嶺雄監修 時事通信社 1992年)に記した一節に接すると、やはり哀しいことだが桑原の眼は節穴だったとしかいいようはない。その節穴の眼に映じた虚像を、大方の日本人は中国の真実の姿と信じ込んでしまったのだから、哀しさを通り越して喩えようのない腹立たしさを覚える。
ところでパトリック・サバティエは1955年当時の中国を、「当時北京を訪れた数少ない西欧人は街にみなぎる緊張感に驚いている。人々は常に当局の疑惑の目にさらされ、国中に広がった密告におびえて暮らしていた。服装の画一化、プロレタリアの青い服は、ロベール・ギランも指摘しているように、共産政体が求め、脳髄をまひさせる宣伝活動によって国民をおしつけようとしている精神の画一化の表れにほかならない」と伝えている。
ここでロベール・ギラン(1908年~98年)だが、フランス人でアジア通のジャーナリとして知られ、戦前はゾルゲ事件に関与し、敗戦直後の45年8月には連合軍将校に扮して府中刑務所に乗り込み、収監中の日本共産党の指導者である徳田球一や志賀義雄を連れ出している。戦後は日本を拠点に活動し、文革やヴェトナム戦争を報ずる一方、日本批判の“ヨタ記事”を書き飛ばしていた。にも拘らず日本政府は勲三等旭日中勲章(1994年)を授与。
桑原もフランス文学・文化の研究者の看板を掲げているなら、ロベール・ギランの存在は知っていたはずだが、彼の「共産政体が求め、脳髄をまひさせる宣伝活動」という指摘などは無視していたのだろう。何度でもいっておく。やはり度し難い痴性だ。
それはさておき、当時の中国の都市で「街にみなぎる緊張感に驚いている。人々は常に当局の疑惑の目にさらされ、国中に広がった密告におびえて暮らしていた」と感じた西欧人に対し、「中国には泥棒はいない」だけでなく、オオムまでが「『毛主席万歳』と叫ぶ」とは。同じ日本人として情けなさを通り越してトホホ、いやクワバラクワバラ。《QED》