【知道中国 969】                         一三・九・念四

――「四川省産のオオムが・・・成都官話で『毛主席万歳』と叫ぶ」(桑原の5)

「中国の演劇」「四川紀行」(桑原武夫 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

成都の杜甫草堂の跡を訪ねると、「草堂の前の浣花渓は昔は知らず、いまは水田の間を流れる浅い泥川で」「女学生が水泳の講習を受けていた」。胸にも達しない深さの川で、「彼女らは声高く合唱している。(八路軍は歌う軍隊とよばれていたというが、今の中国人は合唱が大好きなのだ)身にまとう水泳着は木綿製の粗悪な品だが、その歌声はハツラツとして新しい中国を感じさせる。八世紀の愛国詩人が志を得ずして閉じこもった草堂の前に響くこの若々しい歌声は、私の尚古の趣味を動揺させ、歴史の変化を深く感じさせる象徴のようであった」と。

当時の経済情況から判断して、「水泳着は木綿製の粗悪な品」であろうが「水泳の講習を受けていた」ということは、やはり選ばれた女学生と見て間違いないだろう。ところで桑原は「今の中国人は合唱が大好きなのだ」「その歌声はハツラツとして新しい中国を感じさせる」などと他愛もないことを綴っているが、学生運動や労働運動の華やかなりし一時期、日本でも「歌声運動」と呼ばれた政治運動が流行ったことを思い出してもらいたい。「嗚呼、許まじ原爆を・・・」「若者よ体鍛えておけ・・・」など、合唱することで“反戦”やら“革命”の思想を頭の中に刷り込んでいったわけだ。

毛沢東が革命に演芸・芸能を多用したことは再三述べてきたところだが、「今の中国人は合唱が大好きなの」ではなく、合唱を続けていくうちに否応なく洗脳されていくのだ。いわば女学生らの水泳講習は、遠来に日本からの客へのデモンストレーションであり、同時に洗脳工作の一環と、みるべきだろうに。

桑原は中国人のインテリとの交流を多く記しているが、たとえば四川大学の文学部長は病身なので週4時間講義するだけ。「マルクス主義者ではないが、こういう人に強制を加えず、尊重しているのが新中国の特色の一つといえる」と綴る。また「中国では昔から読書人の社会的地位が高いことと関係するのだろうが、教授が自分で客に茶をだすなどということはありえず、教授一人に必ず一人の学僕がいたのだ」と記した後、「革命後、この制度がどうなったか、私は興味をもってきたが、北京でも成都でも、それは変わっていなかった」と、依然として「読書人の社会的地位が高い」ことを維持している共産党政権への賛辞を送っている。

ところが、桑原の中国旅行から2年が過ぎた57年に反右派闘争が発動されて以後、毛沢東による執拗なまでの知識人狩りが全国規模で展開されたことは既に知られたところだ。毛沢東は知識人をゴキブリ視し、社会からの徹底排除を進めたのである。

託児所見学で、「(インテリ婦人が)こうした社会的な仕事をするのが新中国の一つの風潮」だと解説し、「友人の遺児を預かって育てているのを連れてきたが、やっとよちよち歩けるその幼子は、人の顔を見ると『さあおかけなさい』といい、毛主席はときくと、手を上げて『毛主席万歳』と可愛い声を出す」と感涙に咽ぶ。毛沢東の神格化教育だろうが。

なにはともあれ中国では目の前のすべてを疑うことなく信じ込み讃えた桑原だったが、広州経由で香港に出た途端、一転して批判精神を存分に発揮することになった。

香港では「女性の服装はあでやかに、口紅は色濃く、世界のゼイタク物資はすべてここにある。ふところに金のあるかぎり、そこはふと自由の国のごとく見える。しかし、それは消費者の自由であって、生産者の自由ではなかった。植民地文化、それがいかに美しく見えようとも、私たちには無用である」と、なにを勘違いしたのか、香港を悪しざまに罵る。香港に悪罵を投げかけても意味はない思うが、それにしても「植民地文化、それがいかに美しく見えようとも、私たちには無用である」とは・・・厚顔で無恥、いや無知だ。《QED》