【知道中国 970】 一三・九・念六
――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の1)
「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「徐州、徐州と人馬は進む・・・」。『麦と兵隊』『土と兵隊』で知られた火野葦平(明治40年=1907~昭和35年=1960年)は、昭和30年4月21日、香港から中国へ。15年前、同世代の日本の男がそうであったように、火野もまた中国で戦っていた。
火野は、4月初旬にインドで開かれたアジア諸国会議に出席した日本代表団41人のうち中国政府から招待された28人中の1人として中国旅行参加している。「政治家、経済人、学者、労働運動家、婦人団体代表、医師、作家、詩人、宗教家、など、一行はいろいろな階層の人からなっているが、左翼系と思われる人が三分の二を占めてい」た。
先ず「私はかたよらぬ眼と心とで、すなおに新しい中国の姿を見たいと考えた」が、火野といえども、いや火野なればこそ戦争の傷痕は深いようだ。「私の立場としてはこれまでのありかたとしては十分反省して、控え目に、出しゃばらないように小さくなって、ただ新中国の実態をつかみたいと意図した」。そして「私は中国からは敵と目される人間の一人であるという自覚は、私を単なる旅人というのどかさから閉めだしたのみならず、いつか私に一つの脅迫観念さえ植えつけていた」と付け加える。「強迫観念」などと、作品が醸しだす豪放磊落なイメージに似つかわしくない弱気をみせるが、まるで生傷に塩をすり込むかのように「一行中の左翼人の或る者は終始私を戦犯呼ばわりし、インドにいたときから、いかな火野さんでも偉大なる新中国の建設の姿を見たら洗脳されるだろうし、もしそうでなかったら、もうあなたは終わりだといっていた」ほどだ。
いつの時代でもそうだが左翼にせよサヨクにせよ、弱い立場に立たされた者を徒党を組んでイジメ倒すことを生業としている奴等だが、その化けの皮が帰路の香港で暴かれることになるので、どうか、その時を楽しみに待っていて戴きたい。
さて肝心の火野だが、周囲の雑音にもめげず「革命後の中国は昔とはすっかり変ったといわれている。ほんとうか、どうか? 変っているならどんな風に変っているのか? よく変っているか、悪く変っているか? 変りかたに納得が行くか行かぬか? 肯定できるのか、否定しなければならないのか? それはただ行きずり旅人が未知の国の風光文物を観光するというのんきなものではなく、私自身の全精神にひびくもの、人間として作家として、また日本人としての強い連繋と責任とを感じるものとして、私を緊張させていた」と、中国旅行に賭けた熱い思いを素直に吐露する。
この辺が、すでに見た米川や柳田のように、ノー天気にもアゴ足つきの招待旅行を謳歌している左翼とは、明らかに違う。流石に火野だ。伊達や酔狂で戦地に生きる兵士の姿を描いたわけではない。
いよいよ中国に向かうことになるが、一行の事務局長は「中国に入ったら統制ある恥ずかしくない行動をとりたい。現在の中国は昔とはちがっているのだから、車の、値段をねぎったり、ホテルのボーイをどなりつけたり、やたらマージャン・パイその他高価な土産物を買いあさったりしないように願いたい。これから方々を視察しなくてはならないが、話を聞いているときに居眠りすることは禁物。前の視察団のとき、帰国後、車ひきやボーイの組合、大学生などから批判された前例がある」と注意したうえで、「われわれは香港滞在中からすでに中国政府から招待になっている。先方はそれだけ鄭重にやってくれているのであるから、こちらも十分にそれにこたえたい」と、全員に“クギ”を刺している。
「香港滞在中からすでに中国政府から招待になっている」なら、香港における一行は先方の監視下に置かれていた。いわば一行全員の香港における言動は逐一把握されていた可能性が大だろう。どうやら一行は既に香港で先方の掌の上で踊らされていたようだ。《QED》