【知道中国 971】                         一三・九・念八

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の2)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

現在では香港から中国に鉄道が通じているが、当時は旅客は香港側の終点である羅湖で一たん下車し、香港側と中国側とを限る深圳河に架かる橋を渡り、中国側の始発駅である深圳駅で広州行きの列車に乗り換えていた。

現在の地名でいうと、深圳河が香港特別行政区と深圳経済特区を分けているが、共に中華人民共和国であることに変わりはない。だが当時は、深圳河を挟んで手前の香港は英国植民地で経済的には自由放任主義、向こう側は社会主義の中華人民共和国。互いに交わることのできない政治・経済体制の下にあっただけに、列車が羅湖に近づくに従って旅客の緊張感は高まっていったはずだ。

羅湖で一行を出迎えたのは「抗美援朝、解放台湾」などと書かれたポスターだった。「お茶をよばれ」ながら待っていると、7人の案内人――つまり通訳兼監視人がやってきた。1人だけいた女性は、「まだ若くてきれいだが、男とかわらぬ地味な服装をしていて、白粉気もなかった。紅はもちろんつけていない」。

一行が中国入りした55年4月、毛沢東は2人の“忠臣“――文臣の鄧小平と、武臣の林彪――を共産党政権最高機関である政治局員に抜擢し、独裁体制へ向け着々と布石を打っていた。そして7月、文芸理論家・詩人・翻訳家の胡風を筆頭に130人ほどの「反党的知識人」が逮捕される一方、毛沢東は「農業協同化に関する報告」を発表して農村の集団化を呼びかけた。農民を急進的な政治スローガンで駆り立て、農村における社会主義化を一気に押し進めようという魂胆だ。客観情況の如何にかかわらず、毛沢東の恣意的な考えが共産党の大方針となりはじめていた。

ここで些か寄り道をして、興味深い史料を紹介しておきたい。

胡風が批判された直接の要因は、54年に『関于幾年来文芸実践情況的報告(数年来の文藝実践情況に関する報告)』(「三十万言書」)を発表し、文芸部門における共産党による官僚主義的作風を強烈に批判したことにある。だが、なぜ胡風が糾弾されなければならないのか。一般人民にとってサッパリ判らなかったに違いない。とはいうものの、共産党政権としては、何としてでも一般人民を巻き込んで一大政治運動を展開し、共産党に批判的な多くの知識人に恐怖を覚えさせ、共産党批判を封じ込める必要があったということだろう。

いま手許に「堅決粛清胡風集団和一切暗蔵的反革命分子報告大会(胡風集団と身を潜めている全ての反革命分子を断固として粛清する報告大会)」と銘打たれたチケットの半券(コピー)がある。そこには、55年6月16日午前9時開始、会場は天津の和平路人民劇場。報告者は方起局長と記されている。この種の政治集会入場券(コピー)のなかには「後日の検査のため保存のこと」と注記があり、所持者の名前まで書かれているものも見受けられる。どうやら、政治集会への参加の有無を当局が確実に把握していたようだ。

字を読めるか読めないかといった文化程度の圧倒的多数の人民が、胡風の書く内容など解るわけがない。であればこそ批判のしようがない。胡風集団やら反革命分子といったところで一般人民にはサッパリ判らない。日常生活には関係ないことだ。だが、共産党政権にとっては、それでは都合が悪い。やはり人民が胡風の反党思想を批判しているという体裁を演出する必要があった。であればこそ一般人民への洗脳教育を徹底させるため、この種の官製集会が組織されたということだろう。思想信条が厳しく統制されはじめていた。

そんな緊張した時代である。「地味な服装」で「白粉気もな」く、「紅はもちろんつけていな」かったとしても、なんら不思議ではないだろう。かくて「正式には中国人民保衛世界和平委員会の招待」による一行の中国旅行は、羅湖の駅から本格スタートである。《QED》