【知道中国 1679回】 一七・十二・念九
――「早合點の上、武勇を弄ぶは、先ず先ず禁物とせねばならぬ」――(川田3)
川田鐵彌『支那風韻記』(大倉書房 大正元年)
川田によれば、「大日本帝國の一大任務」は「人種繁殖力の盛なる彼の國人に、(列強による)經濟的蠶食の畏るべきを知らしめ、國民的自覺の念を惹起せしむる」こと。また「我が商工業の發展上より考ふるも、隣國四億の顧客は、之を忘れてはなら」ないし、「自衞上よりも、道義上よりも、其の他何れの方面より見るも、我が國人は支那人の師友となり、先覺者となり、彼を導き、彼を敎へ」、かくて「宇内の平和を、永久に保つことに努めねばならぬ」ということになる。
川田の考えは、おそらくアジアへの野望を逞しくする西欧列強の覇道に憤り、アジアの王道に拠って立ち向かおうとした当時のアジア主義者の間の共通認識だったように思う。であればこそ「大日本帝國の一大任務」であったとしても、「人種繁殖力の盛なる彼の國人」を、どのように「導き」「敎へ」れば、「國民的自覺の念を惹起せしむる」ことが可能であると考えていたのか。たしかに「我が商工業の發展上より考ふるも、隣國四億の顧客は、之を忘れてはなら」ないが、だからといって心の底から「我が國人は支那人の師友とな」ることを願っていたのか。「人種繁殖力の盛なる彼の國人に、經濟的蠶食の畏るべきを知らしめ、國民的自覺の念を惹起せしむる」ことは壮大なるロマンでこそあれ、現実問題として所詮は無理だと考えることはなかったか。
たとえ川田の主張に間違いがないにしても、相手側からするなら“要らぬお節介”ではなかっただろうか。「國民的自覺の念」を他国の人間が教え導くことなど所詮はムリな相談というものだろう。とどのつまり「國民的自覺の念を惹起せしむる」ための唯一確実な方途は、その国民が自ら「國民的自覺の念を惹起」するしかないはずだ。
アジア主義から征韓論、はては脱亜論までの論議は後日に譲ることとして、川田の旅の先を急ぎたい。
「のぼる朝日に照されて、帝都を立ち、新領土朝鮮の勝地を探り、満洲の古蹟を訪ひ、奉天より、京奉鐵路を利用して」南下した川田は、「今は野蠻人とて、牛馬の如く見做されたる、簡易生活に慣れし苦力の類、最後の勝利を占むるものなるか」と考え、「何れにしても、支那人の眞價を見誤れるものゝ多きを、不思議に感じつゝ、自ら問ひ答へながら」、天津、青島、曲阜、北京、漢口、武昌、洛陽、長安、長沙、鎮江、揚州、杭州、上海を廻っている。
旅を締め括るに当たり、「矢張り、百聞は一見に如かずで、實地調査の上、支那研究の趣味が加は」って、川田は数多くの疑問を持った。「其中特に自分の腦を刺激した」という「支那に關する疑問」のいくつかを記している。
「其一」=「支那の事情を多少研究した人々の頭腦に起る、第一の疑問」は、「現在の支那に、利己主義以外、多少話せる人物があるであろうか」ということ。たしかに辛亥革命は「遠くの人に豪い勢いの如くに見せかけ」ながらも、「兎に角物になつたが」、国難に際して「靜に大事を料理せらるゝ程の人物は、先ずまず一人もいないように思はれる」。こういった惨状にあるにもかかわらず各国が干渉しているのだから、危険極まりない。
「其二」=「既に人物は乏しい」うえに、「四億の國民が、苦力同樣の、眼中一丁字もなき、憐むべき輩である」。彼らに「多少の國民敎育を施し、言語の統一など計るは、一朝一夕の仕事でない」。
「其三」=「水陸の動脈とも仰ぐべき水陸の交通機關は、何れも列國に奪はれ」ている状況だが、これら権利をどうやって「回収」するのか。具体策がみられない。
「其四」=借款、借款、また借款。借款に次ぐ借款に先行きの見通しは立つのか。《QED》