【知道中国 1677回】 一七・十二・念五
――「早合點の上、武勇を弄ぶは、先ず先ず禁物とせねばならぬ」――(川田2)
川田鐵彌『支那風韻記』(大倉書房 大正元年)
はたして川田は帰朝報告を行ない聴衆に向って、「じつに彼らは不潔、臆病、野卑、ボンヤリ然、横着、意地悪であります」などと語ったのであろうか。これが現在なら、さしずめヘイト問題に引っ掛かり“炎上”は必至。マスコミが騒ぎ出し、謝罪を逼られるだろう。
ともあれ流石に川田は教育者である。「斯る人々と交り、斯る人々を教へ導き、同化したかの如き風を保ちながら、以心傳心の中に、物の道理を解せる人士を造りたいものである」と抱負を述べる。だが教化の末に中国に「物の道理を解せる人士」が増加し、やがてそういった人間に満ち溢れると予想し、「人口増加の餘、生存競爭が激烈になるに連れ、人類として、最後の勝利を占むるのではなからうか」と将来への疑念を呈する。つまり「物の道理を解せる人士」に満ちた中国が、やがて世界の覇者になるというのだ。
さらに文明国にとって最も脅威となるのは、「寒暑を厭はず、簡易生活に慣れた支那苦力の類」であると続けた。いかに迫害されようが、彼らは屁とも思わない。やがてこの世界に「窮鼠遂に猫を咬むの日」がやって来る。その時、「世界が、暗黒時代に陷るであらう」。どうやら川田は、100年ほど先の21世紀初頭の現在の世界を予想していたようにも思える。
現代の中国における華僑・華人問題にかんする代表的研究者である陳碧笙は、天安門事件から2年が過ぎた1991年に『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社)を出版し、海外に漢族系(華僑・華人)が存在する原因を「歴史的にも現状からみても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動が停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」とし、帝国主義勢力が植民地開発のために奴隷以下の条件で中国から労働力を連れ出した、つまり彼らは帝国主義の犠牲者だという従来からの説を真っ向から否定した。
川田の見解を陳碧笙の考えで言い換えてみると、「寒暑を厭はず、簡易生活に慣れた支那苦力の類」が海外に溢れ出すのは、「歴史的にも現状からみても、中華民族の海外への大移動」という人の流れに沿ったものであり、「時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」。となれば「窮鼠遂に猫を咬むの日」はそう遠い将来のことでもなさそうだ。
次いで川田は、「支那は、差當り、家族制度の下に、極端な個人主義が發達した、利己主義一點張りの、面白い國柄である」とする。たしかに長所も短所もあるが、「我儘一方の國民では、國として、立派な體面を維持することは、覺束ない」。だが「長く睡つた支那も、此頃漸く眼が醒め」てきた。その証拠に列強諸国に奪われた利権を回収し、法制度の近代化に動き出したようだ。だから、「やがて、國民的自覺の下に、頭を持ち上げないとも限らぬ」。やはり日本人は「自ら支那人になつた氣で、靜に觀察せねば、支那の眞相は分らぬ」。
では、なぜ「今迄、日本人が支那の眞相を誤解して居たの」か。それは「日本化された漢學で、直に支那を早合點した結果である」。
ここで時代を一気に下って文革の頃。当時の日本を代表する親中派・毛沢東主義者が総力を結集して編んだであろう『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)の「はじめに」には、「日本人は明治以来、中国について見そこないの歴史をかさねてきた」。それというのも「日本人の抱く中国像が、論語や孟子や古文物をとおして構成され」てきたからだ、との‟猛省”が高らかに記されている。
川田が「日本化された漢學で、直に支那を早合點した結果」と指摘してから長い時間が過ぎてもなお、日本は「中国について見そこないの歴史をかさねてきた」・・・何故だ。《QED》