【知道中国 1676回】                      一七・十二・念三

――「早合點の上、武勇を弄ぶは、先ず先ず禁物とせねばならぬ」――(川田1)

川田鐵彌『支那風韻記』(大倉書房 大正元年)

 

川田鐵彌は土佐の産。東京帝大で学び文部省に入省。陸軍幼年学校教官や早稲田大学の前身である東京専門学校で講師を務める。日露戦争前年に当たる明治36(1903)年に現在の高千穂大学につながる高千穂小学校を設立している。享年86歳。

 

西郷の征韓論に端を発した「明治六年政変」が発生した明治6(1873)年生まれということは、この『支那風韻記』は川田が39歳の時の出版したことになる。当時の彼は、小学校に続き、幼稚園、中学校、そして大正3(1914)年に全国初の私立創業高等学校を設立し、幼稚園から高等学校までの一貫教育を行う総合学園の経営者として重きをなしつつあった。

 

川田が「山海關、天津を經て、北京に入り、北清の状況に親しく接したる後、漢口・武昌・長沙の邊に遊び、南清の一大動脈とも云ふべき揚子江を、我が日清汽船會社の大利丸にて下り、南京・蘇州・杭州・上海方面の消息を味うた」のは、「明治最終の年月」とのことだ。旅行の目的は「彼の山を玩び、彼の水を掬み、風韻を異にせるを樂しむ位の目論見であったから」、辛亥革命・清朝崩壊・中華民国建国と続く隣国の激動には左程の関心を示してはいない。

 

それだけに、社会の激動と関わりなく生きる市井の人々の日常の姿が捉えられている。それはまた土佐出身で東京帝大卒業し、陸軍幼年学校や東京専門学校で教鞭を執り、やがて帝都の東京で教育者として名を成す、いわば当時の立身出世コースを歩いた刻苦勉励型田舎秀才エリートの中国観を知るうえで、『支那風韻記』は格好の材料といえるだろう。

先ずは旅行の心構えを。

 

当時、「支那旅行に出掛くるには、別に旅行券を其筋より貰受くる必要もないから、思ひ立つたが吉日で、其の日にも、出發すれば善い譯であ」った。そのうえ大陸各地には「日本人の經營に係る旅館があるから、其處に宿泊すれば、支那語や英語などがあやつれなくとも、格別の不自由はない」。だが、問題は全国で統一されていない貨幣だ。

 

たとえば「自分が奉天で取り換へて貰つた紙幣は、反古かと思はれる位、樂書が澤山あつたから、其の理由を聞くと、樂書の多い紙幣は、方々の人の手に渡つた都度、其の家の主人が、氏名を認め、僞物でないことを證據立てヽあるから、却つて安心だと聞いて、二度吃驚した」とのことだ。

 

「何れの名勝にまゐつても、堂宇には、塵埃が積もり、庭園には、雜草が生ひ茂り、丸でうちやつてある」。壊れていても修理をする様子はみられない。だから「立派な歷史を有する勝地が、年毎に、空しく荒れ果て」る始末だ。都市の道路や下水も同じで「一時は立派に構へても、修繕を怠るから」荒れるに任せ、「不潔極まる有様である」。どうやら「風致保存などと云へる奥床しい考へは、支那人の頭には、皆無である」。加えて彼らは戸外の自然を好まず、「人口の美を喜ぶ風があつて、天然の美を解する士に乏しい」。

 

これを要するに、日本人とは趣味嗜好を異にするということだろう。

 

一般の人々に接しての感情は、ともかくも劣悪。「或人の書」から、次のように引用している。ここでいう「或人」は、あるいは川田自身と考えられないこともない。

 

「彼等は、動物の親類である、到る處、何も選ばず、之を貪りて、不潔を厭はざる所は豚の如く。群を爲しても、臆病なる所は羊の如く。狗の狺々として骨を爭ふ如くに、其の状の野卑なる。尨大にして、ボンヤリ然たる所は、頗る駱駝に酷似して居る。騾馬の臆病にして悲鳴する。驢の橫着にして意地惡き、鷄の多情なる、小鳥の人に養はれて平氣なるなど支那人を説明し得て妙である」。

 

不潔、臆病、野卑、ボンヤリ然、横着、意地悪・・・こう、川田先生は教えたのか。《QED》