【知道中国 1675回】                      一七・十二・念一

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田13)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

数千年の歴史に照らしてみれば、革命と称し「支那にありては國家統一の楔子たるべき天子を廃」したものの、これに代わって民心を糾合する仕組みを考えださない。だから「國民は國家と相離れて収拾すべからざる状態に移り變」ったとしても致し方のないことだ。「仮令ひ如何に袁大總統非凡の老雄」であったとしても、「滿朝の一大官に過ぎ」ない。大総統に就いたからといって、「四百餘州を擧げて四億萬民心の啓仰の中心點とは直ちに」なれるわけではない。とはいえ「共和国の今日袁を措きて誰か國家の第一人者たるものぞ袁たるもの自重加餐國家柱石を以て自ら任じ憲政の美果を成就せられんことを國民の爲に祈申候」と、袁世凱にエールを送ることを忘れてはいない。

 

袁世凱へのエールはエールとしても、「民心の歸向する尊嚴は智力財力と武力」だけで成り立っているわけではない。であればこそ、「支那の将來は如何に中華民國の前途果たして如何に候や」と不安にもなる。「智力財力と武力」を包括しながら、その先に成り立つ「民心の歸向する尊嚴」を失くしてしまったゆえに、「四百餘州を擧げて四億萬民心の啓仰の中心點」の存在しない中華民国の「堅實統一」は覚束ないということだろう。

 

かくて前田は、若くして廃帝となった宣統帝溥儀に思いを致しつつ「隣邦の末如何なるべきかを思ひ悲喜交々來り申候」と綴った。

 

北京を離れた前田は天津に向い、渤海を東に渡ってアカシアの緑濃き大連へ。旅順では「軍神廣瀬中佐の忠烈を偲び」、戰利品陳列所では「敵砲火の下に在りて岩石の層をなせる土地を掘開し坑道を作る可く朝に寸を穿ち夕べに尺を掘り半歳の間艱難と缺乏を凌ぎ赤誠一片十字鍬を揮ひて岩石と戰ひし」兵士の労苦に涙し、東鷄冠山北砲臺に足を運んでは名もなき兵士らの「奮戰に次ぐ奮戰を以てし格鬪亦格鬪」「突撃に次ぐ突撃」という力戦の跡に心を震わし、そこ此処に「我日本武士道の無言の敎科書」を認めている。

 

南満州における経済にも言及しているが、辛亥革命が同地の貿易に与えた影響に言及し、真っ先に帽子を挙げている点が面白い。

 

「從來支那人の用ゐる帽子と申せば支那帽に限」られていたが、「革命亂の結果斷髪者増加し且支那人の思想上の變遷を來せし爲めか鳥打帽子、中折、麥藁帽等の賣行盛となり」、併せて「洋服洋靴等の需用を喚起」したとのこと。かくて「今後彼の支那人の間に新思想の加り候らはゞ益『ハイカラ』懸りし新事物を必歡迎致申候ことに相なる」だろうから、前田は「對支那貿易過渡時代の大勢に鑑みて適應の商策をたてられたきことゝ特に我實業家に向て」望んでいる。

 

それにしても辛亥革命勃発、清国崩壊から中華民国建国を経て貿易産品にも変化が起っていたとは。それも「支那人の思想上の變遷を來せし爲」だろうが、早くも「對支那貿易過渡時代の大勢」を捉える辺りの前田のアイディアを、当時の「我實業家」はどのように受け取ったのか。これまた知りたいところだ。

 

やがて南満鉄道で北上し、長春で「露國の經營到候所謂東清鐵道に乘換」て哈爾濱へ。どうやら東清鉄道側当局から思いのほか鄭重な扱いを受けたらしく、「日露兩國民親交の上に多大の注意と用意とを拂はれ候露國官憲の厚意に對しては深謝する處に御座候」と記す。

 

「日露兩國民の接觸する第一線」の哈爾濱では、「何等國家の公力の保護」はないが、「居留邦人の獨立自尊の意氣に依り官民同胞協力一致し其事業に務め確實健全に發展」している一方、「露國官民をして我邦人に同情を寄せ親善の友誼を交換する」など、「日露兩國に意思の疎通を阻礙すべき事情毫もな」く、「兩國の修好や歳と共に親厚を加ふるべき」と。

 

やがて前田は安奉線で鴨緑江を渡り京城へ。半島には“若い日本”が溢れていた。《QED》