【知道中国 1673回】                      一七・十二・仲七

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前11)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

対外的には建国直後から周辺東南アジア諸国に向けて展開された「革命の輸出」、1950年に勃発した朝鮮戦争以来の反米帝国主義、50年代後半から顕著になりはじめ文革期に頂点に達した反ソ連社会帝国主義、文革期の文革外交、さらには1968年に西側先進諸国で“異常発生”したスチューデント・パワーに悪乗りしたマオ・イズム・ブームなどはあったが、そのいずれもが米ソ両国による世界秩序を揺るがすことはできなかった。もちろん、2つの超大国による世界支配を認めるわけではないが。

 

いわば国内政治が激動を繰り返そうが、対外的に過激な路線を掲げようとも、北京には国際社会を根っ子から揺り動かす力などありはしなかった。いかに力もうとも、である。

 

誤解を恐れずに表現するなら、毛沢東の時代の中国は「戸締りをして家族でマージャン」をしているような状態だった。頭に血が上って我を忘れようが、家の中で盛り上がっているのは家族だけ。勝負に勝とうが負けようが、カネは身内の間を行き来するしかない。だから好かれ悪しかれ世間に影響を与えるものではなかった「百戦百勝」を自画自賛しようが、しょせん毛沢東思想は“内弁慶”のままに終わったのである。

 

だが、毛沢東路線を否定して鄧小平が登場するや、中国は国内的にも国外的にも様相を一変させた。

 

対外閉鎖を止め対外開放に踏み切るや、中国の対外的影響力は量的にも質的にも劇的変化を遂げた。いまや国際政治・経済は北京によって引き回される始末だ。習近平が強引に推し進める一帯一路を包囲殲滅するほどの大構想は、みられそうにない。毛沢東の時代には都市では国営企業、農村では人民公社に縛り付けられ希望を失いかけていた老百姓(じんみん)は、鄧小平が掲げた「向銭看(ゼニ儲け至上主義)」の権化となって国境の外にまで「走出去(とびだ)」し暴走を続ける。

 

最上層に位置する習近平の権力欲から最下層の老百姓の金銭欲まで、まさに中国は総身で欲望全開である。このままでは「中国の夢」は世界にとって悪夢になりかねない。

 

日本にとっても同じ、いや事態はより深刻だ。まさか今になっても「子々孫々までの友好」などといった寝言を口にするアホはいないだろうが、「適應の準備」は喫緊中の喫緊の課題ということだ。いまさら習近平に“秋波”を送り、一帯一路への随伴を申し出ても、骨の髄までシャブリ尽されるのが関の山だろう。また“相互信頼醸成システムの構築”などといったフ抜けた対応では早晩腰砕けになる可能性は大だ。

 

閑話休題。

 

前田の筆は「共和制の前途」に移る。

 

「南支那と北支那では人情風俗言語を異にする」が、「支那人の國民性は誰もが申す如く」に、「(一)個人主義の我利がり」「(二)傲慢なる人間」「(三)忘恩の人間」であり、「自ら己を高しとする人間」である。だから外国人に対してはもちろんのこと、「彼等自國人の間にても少しも相信じ温き交りをなし得ぬ人間」であり、「協同一致の實が擧げられぬ國民」である。どだい「一の協會一の會社を設立するにしても集合體としてはいつも成功したることなき國民」という客観情況からすれば、「政治的革命共和政體の樹立の如き大問題は愚の事」だ。

 

「彼の國民性より」考えるなら、やはり「一大共和の大身臺到底不成功に終るべきもの」。かてて加えて「協同一致の實が擧げられぬ國民」という条件に基づくなら、やはり中華民国という「政治的革命共和政體の樹立」は不首尾に終わることは必然であり、それゆえ前田は「共和政体の前途」に暗澹の2文字を見い出すしかなかったということだろう。《QED》