【知道中国 1672回】                      一七・十二・仲五

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田10)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

やはり清朝末期から中華民国建国直後になって孔子は「信念と尊敬とを受けら」なくなり、「支那仁義道德の大道」の「命脉を保」つことができなくなったということか。

 

たしかに前田の“落胆”は判らないわけではない。だが、それは前田の、いや日本人の“買い被り”というものだ。「大聖孔子」は一貫して「四億萬民衆の師表」と崇め奉られてきたようにいわれているが、それは社会の極く上層に限られたこと。目に一丁字もない圧倒的多数の老百姓(じんみん)には全く関係がなかった。彼らにとって「支那仁義道德の大道」などは戯言に過ぎなかったはずだ。一年中休みなく田畑を相手にする農民からすれば、『論語』であれ『孟子』であれ腹の足しにすらならない。

 

やはり『論語』や『孟子』が老百姓(じんみん)の日々の生活に役に立たなかったと同じように、中国古典は日本人が中国・中国人を知ろうとするうえで障害でしかなく、誤解を誘うに過ぎなかったのではなかろうか。

 

いったい歴史上、日本人が理想として描くような「支那仁義道德の大道」などが行われたことがあったのか。大いに疑問だ。かりに「支那仁義道德の大道」という大層な考えは最初からなかった。それは誤解・曲解に基づいて日本人が勝手に描き出した蜃気楼であったと考えるなら、「命脉を保」つことも当然のようにありえない。いいかえるなら、四書五経やその他の古典が尤もらしく記すゴ大層なヘリクツをテコにして中国・中国人を解き明かそうとしたこと自体が壮大なる夢物語、いや徒労だったように思えて仕方がない。

 

辛亥革命勃発から清朝崩壊を経て中華民国建国に至る状況を、前田は「内治外交紛々として定まらざる今日の時期が一番危險に御座候」とした。それというのも、これまで国内諸勢力は「滿朝を仆し專制政治より共和政治の民たらんとする目的」を共有していたが、結果として誕生した中華民国は「共和の形骸片ばかり出來其國の礎未だ築き上げられ」ず。統一を欠いた国内は「共和國と稱するも士民共和せず各省互に獨立の如き様相を呈」し、「中央集權の威力甚だ振はず國政紛糾紊亂」するばかり。「老雄袁大總統の怪腕も殆ど施す策」はなかった。

 

こういった状況が続けば国土分裂に至ることも考えられるが、「如何なる形式にて分裂すべきか殆ど豫測し難」い。分裂するにしても「支那自身にて分裂致す」のか。あるいは「列國の手により分裂せらるゝに至る」のか。これまた「豫想致し難く候」。

 

であればこそ隣国であり利害関係が極めて錯綜している我が国は、逸早く「適應の準備と覺悟とを今に於てなし置かざれば」、「其時に至りて百年の悔を遺」すことになる。かくて「革命混亂時より今日の支那こそ危險物騒千萬の時期と存候」と“警鐘”を鳴らした。

 

こう考えた前田が、かりに21世紀初頭の現在に生きていたとするなら、おそらく毛沢東の時代より「今日の支那こそ危險物騒千萬の時期と存候」と説いたに違いない。それというのも毛沢東は建国と同時に対外閉鎖をしたからである。50年代末期の反右派闘争、50年代末から60年代初頭にかけての大躍進政策、66年から10年続いた文化大革命など一連の政策は国内に大混乱をもたらし未曾有の犠牲者をだしはしたが、飽くまでも国内政治でしかなかった。反右派闘争の犠牲者が理不尽な仕打ちを受けようが、大躍進で多くの国民が飢餓地獄に苦しもうが、文革が凄惨な殺し合いを全国規模でもたらそうが、所詮は「竹のカーテン」で仕切られた内側で繰り広げられたコップの中の嵐に過ぎないものだった。

 

たしかに“コップ”が巨大すぎる嫌いはあるものの、それでも「山よりデカいイノシシはいない」の譬えの通り、中国というコップは地球よりも遥かに小さかった。であればこそ、「竹のカーテン」が地球全体を包むことなどできはしなかったということだ。《QED》