【知道中国 1671回】                      一七・十二・仲三

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田9)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

袁世凱を目の前にして前田は、たしかに「一國首相の印綬を帶ぶるの儀」ではある。だが「大總統は一國の元首」であればこそ、その「地位に立たん者」は「機略術數に富む」だけではなく、「天下萬衆を率ゐる一に德ある」ことが必要だ。その点、袁世凱は「德に於て欠くる所なきか」、「策多きに過ぐる嫌なきか」と疑問を抱く。袁世凱は権謀術策に富み権力を弄ぶことは知ってはいるものの、中華民国の大総統として「天下萬衆を率ゐる」ほどの徳はないというのが、前田の結論といえるだろう。

 

袁世凱のその後だが、1913年10月に正式に大総統に就任し、11月には革命派が結成した国民党を解散させ、14年には国会を停止し、翌年には帝政復活に動き、16年1月には洪憲皇帝を名乗って即位した。だが、さすがに内外からの激しい反対に遭い、袁世凱打倒の第三革命まで起り、3月には帝政を引っ込め、6月には失意のうちに病死している。

 

このように大総統就任から失意の死までを追ってみると、「袁大總統の天下に臨むに須らく德を以てせられんことを彼國の爲に切に祈る處に御座候」という前田の“忠言”が生かされることはなかったということか。それにしても、袁世凱に「天下萬衆を率ゐる」ための徳がないことを見抜いた前田の眼力は褒められてしかるべきだろう。

 

ちなみに『支那遊記』の出版から2年を経た大正3(1914)年に出版された『支那論』で内藤湖南は、袁世凱を「支那の国民を都統政治に引き継ぐ大人物であるかも知れぬ」と、高く評価している。

 

袁世凱に対する前田と内藤――片や加賀藩主末裔の子爵、片や大正・昭和前期の日本を代表する支那学者――袁世凱に対する両者の見立てを比較した時、その後の推移からしてどちらが現実を見据えていたのか。その答えは自ずと明らかだろう。『支那論』は北一輝の『支那革命外史』(大正10年)と共に大正期を象徴する支那論であり、やはり避けては通るわけにはいかない。後日、詳細に論じたいと思う。

 

閑話休題。次は北京の名所見学の一齣である。

 

巨大な喇嘛廟へ。「敷石はそれからそれへと續き候へ共草離々として此處の大荒れに荒れ居り候」。空寂とした境内に前田らの靴音が響くと、「乞食坊主夫々己が受持ちの御堂の前に手ぐすね引いて待ち受け居り錢をつかませねば開けようとも」しない。押し問答の末に小銭を渡し扉を開けさせて中に入るのだが、その先に“難関”が待ち構えている。数多の御堂の「此處に彼處に幾重ともなく錠前かゝり居り其都度乞食坊主に」小銭を要求される。

 

やっとのことで一番奥の御堂に辿り着き、安置されている仏像の数々に手を合わせていると、「よき客得つと許りに乞食坊主」が香炉台の下やら暗がりから達磨大師や佛像を引っ張りだしてきて、「賣り付けんと致し申候」。かくて前田は、「み佛に仕え奉る僧侶共が如何に末世とは乍申他國の觀光客に佛像を押賣せんとするに至ては沙汰の限り度すべからざる僧形の獸物と存候」と驚き呆れた。

 

次いで訪れた「大聖孔子の廟」でも、「乞食坊主に錢を貪られつゝ門を入る」。覆い難い惨状に、「四億萬民衆の師表と仰がれ候聖人も三千年の今日其國民から果して幾許の信念と尊敬とを受けられ居候や」と疑問の声を挙げる。かくて前田は「支那仁義道德の大道は今猶幾許の命脉を保ちつゝ居り候や」と続け、「一度聖廟に詣づれば思ひ半ばに過ぎ申すべく候」と嘆き呆れ果てる。

 

たしかに前田のいわんとすることも判らないではない。だが、はたして孔子は「四億萬民衆の師表と仰がれ」ていたのか。「三千年」の間、「聖人」は「其國民から」「信念と尊敬を受けられ」、「支那仁義道德の大道」は「命脉を保」ってきたとは、とても思えない。《QED》