【知道中国 1668回】                      一七・十二・初七

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田6)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

つまり日本人の前田にしてみれば清朝が崩壊し中華民国が誕生したわけだから、全土が排満思想で沸き返っているはずと思っていたわけだが、どうやら肩透かし。そこで、次のように考えた。

 

共和思想は南部の限られた「士人」が何らかの意図に従って「唱道」しただけ。彼ら以外は「當時盲目的に烟に捲かれ雷同附和して噓から出た誠とはなりし位のもの」でしかなく、「堅固なる政治上の信念により排滿思想の天下に充實して民論遂に革命となりしものとは受とれ申さゞる樣」である。

 

「『ハイカラ』の共和政治」を掲げる中華民国中央政府所在地の北京からほど遠からぬ信陽で前田が眼にした光景は、まさに清朝治下のそれであった。かくて「共和政府の威嚴の徹底せざるものあるに至りては共和政も隨分薄ぺらのものなることと相知り可申存候」と結論づけた。

 

どうやら前田は北京の「中央政府を去る左迄遠からざる併かも鐵道沿線上」の信陽の街で、じつは日本人自らの物差しが単なる思い込みに過ぎたかったことを気づかされたということだろう。

 

これを一気に天安門事件に敷衍してみると、日本では中国全土が民主化の要求に溢れていたと思い込みながら事態の推移を注視していた。だが「ハイカラ」な民主化思想は一部の「士人の爲す所ある爲に唱道せしを他は當時盲目的に烟に捲かれ雷同附和し」たに過ぎなかった。であればこそ、「堅固なる政治上の信念」による民主化思想が当時の中国の「天下に充實して」いるはずもなかったということではなかったか。

 

鄧小平の改革・開放政策にしてから、「ハイカラ」な経済改革による政治改革・開放社会実現は一部の「士人の爲す所ある爲に唱道せしを他は當時盲目的に烟に捲かれ雷同附和し」ただけであり、結果として生まれたのは欲望剥き出しの超野蛮弱肉強食市場経済だった。経済が発展し、社会が豊になれば民主化するというアメリカ式希望的観測は、こと中国においては全く成り立たなかったわけだ。

 

それにしても中華民国建国以後の混乱を考える時、辛亥革命を「當時盲目的に烟に捲かれ雷同附和して噓から出た誠」だと捉える前田の視点に注目しておきたい。

 

北京では「租界地に入り申候英國、德國、(獨逸)荷蘭、(和蘭)美國(米國)俄國、(露國)法國、(佛國)奥國、(澳國)伊國、及日本、の各使署(公使館)が搆を接し居り候」。ここには各国が駐屯軍を置き「嚴然として武威を振ひ居り候」。各国兵が共に巨体を煌びやかな軍服に包み「萬國軍隊の繪巻物くりひろげたるが如く」にあるが、我が守備兵は小柄な体に地味なカーキ色の軍服だ。「短小なれ服装こそ質素なれ勇氣凛々として輕快なる精氣眉宇に溢れ居る我日本兵が巨身長軀の大陸兵の間に伍して毫末も遜色なく押しも押されぬ樣見ては肩身廣き心地いたされ申候」。

 

なぜ各国軍隊が北京中心部の一角に駐留しているのか。

 

じつは1900年の義和団事件に際し、「外人を排斥追害なさんとする無道人に朝廷ともあらうものが加擔」した結果、「各國の軍隊を首都に駐屯せしむる權利を與へ」てしまったからだ。かくて清国は「居留外人の生命財産を保護すべき力量と誠意なきとさげすまれ外國軍隊の銃劍の光を都府門内に閃かされ」、「屈辱を忍ばねばならぬ」ことになった。

 

「他國人の吾々さへ口惜しきことに思」うことを、「支那の國民は何と思ふやらん」。とはいえ「此等が覺醒の端緒となり候ようなれば禍却つて幸福と申すもの」であろうが、「斯る屈辱を屈辱として心外に思ふや如何」。「此點が先づ以て疑問に御座候」となる。《QED》