【知道中国 973】                         一三・十・初二

――「・・・うっかりものもいえんなあ、と誰かが笑った」(火野の4)

「赤い国の旅人」(火野葦平 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

火野は「通訳者諸君はみな二十代で、溌溂とした明るさにみなぎっていた。正しいと信じきっている一つの思想に全身全霊をささげているための快活さが自然のままで、策略的なかげは少しも感じられなかった」と感想を漏らす。だが「高い望楼様の塔」の説明にしても、「昔地主が搾取していた時代」を際立たせるための「策略的なかげ」を感じないわけにはいかない。

車中のことだろう。案内人の代表格と思われる「眼鏡の奥に教養の深そうな眼が光っている四十歳前後の温厚な」李徳純さんがやってきた。学生時代というから戦争中のことだろうが、火野の代表作である『麦と兵隊』を読んだと告げる。そこで火野は「赤面した。同時に昏迷した。警戒心とはちがうが、私の『麦と兵隊』を読んだという言葉が、赤い国のなかで赤い青年によって語られることは私をすくませる」からだと、その時の思いを素直に綴っている。

中国招待が決まる前、すでに火野らは名簿を差し出しているので、一行の「素性や閲歴は調査されている」から、中国の土を踏んだ以上、ジタバタしてもはじまらない。だが中国入国以前から、すでに一行の中での火野イジメがはじまったようだ。左翼とは、なんとも卑怯なヤツらだろう。

たとえば労働運動家を名乗る常久は火野を「戦犯呼ばわりする」だけでなく、「火野さんのような軍国主義者は入国を拒否されるだろうといっていた」。そこで火野は中国では「そういうこともあるかも知れぬと思っていた」が、「もし入国を許されてもつねにスパイとして監視されるにちがいないともいった」常久は、「進歩的と反動との二つの言葉であざやかに人間を割り切ってしまう」。もちろん火野は反動ということになるが、反動の火野が何事もなかったように「入国が許可されたときには意外といった顔つきをしていた」という。

おそらく当時の中国側の基準に基づくなら、常久のように自分から尾っぽを振って近づく進歩派は然程の利用価値がなかったに違いない。やはり『麦と兵隊』を著し、自ら反動と思い込み、戦争中の行動に一種の後ろめたさを覚えている火野のような人物を抱き込み、帰国後の日本で“新中国の素晴らしさ”を宣伝させることこそが共産党政権にとっては最大の狙いであり、それこそが統一戦線工作の眼目なのだ。

過般、産経新聞が50年代半ば毛沢東が「A級戦犯」の訪中を画策していたと報じていたが、これもまた火野招待と同じ意図に違いない。やはり新国家建設に一定の方向性を打ち出した50年代半ば、共産党政権は日本の“反動派”に狙いを定めていたようだ。

火野は「中国人から私の戦争中の作品(特に、中国を戦場とした作品)について語られることは、私を当惑させた。しかし、李さんはなにも私を追及したり、私の反応をみたりする様子はなく、親しみのある調子で思い出話をしているにすぎないように思われた」と一種の“安堵感”を綴る。だが、短兵急に「追求」したり「反応をみたり」したら、火野が固く身構えてしまう。それでは招待外交の効果が失せてしまう。ここは火野の警戒心を解くことが肝要だったはず。とにもかくにも火野の心を和ませようという魂胆に違いない。

李は東京の一高在学中の思い出からはじまり、日中両国文壇の話、「日本政府が中国へわたろうとした市川猿之助一座の歌舞伎を拒否したこと」などを話しかけ、火野との“間合い”を詰めて行く。見事なまでに人心収攬術だ。

「すこし離れた席にいた」常久は時々、2人の方に体を捻じ曲げ「疑いぶかそうな眸で見ているのを」火野は気づいていたが、「素知らぬ顔をしていた」という。

やがて列車は中国で最初の夜を過ごす広州駅に到着する。午後7時だった。《QED》