【知道中国 1667回】                      一七・十二・初五

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田5)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

長江々上における「水上權」こそが「中清經營の鍵」であり、延いては中国全土の「經營の鍵」を握ることになる。であればこそ「列國が長江々上に於て多年激烈なる商戰をなし」てきた。わけても日清戦争後の10年間の商戦は熾烈だった。

 

この長江における日本勢は「獨り日清汽船會社のみに御座候」。同社は「英清獨佛諸外國の有力なる諸會社と商戰を開始し孤軍奮鬪血戰多年遂に凡百の艱難に打ち克ち今や大局に於て長江々上優位を占めつつある」。同社の旗は「長江萬里の風に翩翻として旭東新進國の勢威の隆々たるを示し」ている。

 

だが「視察し來り候處に依れば」、税関業務にせよ船着き場の問題にせよ、「英吉利等に比し甚だ割の惡るき事多」い。「何にしろ英吉利は今や下り坂とは申すものゝ流石數十年來の土臺堅うして加ふるに長江の古顔」であり、そこで「諸事都合よく振舞」っている。そのため日本側は「人知らぬ暗々裏に不利不便を忍ばざるべからざるもの」があるようだ。こういった難題は、やはり「官民一致協力して何とか致し度きものに御座候」と。ということは、当時に「官民一致協力」の度合いは、前田が満足するほどの結果を挙げてはいなかった、ということだろう。

「諸事都合よく振舞」う諸外国に「比し甚だ割の惡るき事多」い日本が「人知らぬ暗々裏に不利不便を忍ばざるべからざるもの」があるという前田の指摘は、現在にも通じるように思う。であればこそ現在も一層の「官民一致協力」が必要ということだ。

 

前田は「始めて『チャンコロ』の人力車に乘」って漢口の街を廻った。そして「漢口守備隊附赤松大尉」の案内で、前(1911)年10月16日より11月25,6日の間に行われた清国政府軍と革命軍の戦跡を歩き、革命軍の戦闘を「殆ど兒戯に類する」と酷評する。同時に政府軍の戦闘振りを一定程度は認めるが、革命軍が潰走した後の振る舞いを叱責した。

 

「革命軍を追ひ拂ひ候はお手柄に候へ共支那良民の家屋敷を一片の灰と焼き拂ひ候は不仁にも亦た甚しと申すベ戰述上何等の必要も無之」ではないか、というのだ。「斯る暴擧に出づるとは何たることぞ名は官軍と云ふも實は虎狼の軍と何ぞ擇ばんやで此の一擧官軍は明望を失ひ靡然として革命の機運を助長せしむるに至り申候は自業自得是非もなき次第に存候」と。

 

清国政府軍は「名は官軍と云ふ」が良民を苦しめる「虎狼の軍」でしかなかった。古来中国では「好鉄不当釘、好人不当兵」といわれ、兵隊とはゴロツキ・野良犬の類であり、戦勝は掠奪開始への号砲であったのだ。掠奪の結果として「良民の家屋敷を一片の灰と焼き拂」う。それゆえに「民望を失ひ」、結果として「革命の機運を助長せし」めている。

 

前田は漢口における清国政府軍と革命軍との戦闘振りから、政府軍は「自業自得是非もなき次第」で民心を失うしかなく、革命軍は「殆ど兒戯に類する」戦闘しかできないゆえに政府軍との戰には勝てないと見た。これが漢口における辛亥革命の実態だったということだろう。

 

次いで前田は漢口から汽車で北上し北京に向かうことになるが、途中に立ち寄った信陽府で、辛亥革命の実態に触れる。じつは北京に近い同地では兵隊であれ一般庶民であれ、誰もが辮髪に「前朝の冠帽衣裳を用ゐ」ていて、「中華民國とて『ハイカラ』の共和政治とやら行はるゝ國」とは思えなかった。

 

半年ほど前の革命で清朝が崩壊し中華民国が建国されたことから、全土に清朝嫌悪の排満思想が満ちていると思っていたが、「共和思想は四百餘州の民論主張の期せずして合同せしもの」ではなく、中国南部の一地域に限られたものでしかなかったようだ。《QED》