【知道中国 1665回】                      一七・十二・初一

――「支那は上海の大なるものとなるべき運命を荷ひつヽ・・・」――(前田3)

前田利定『支那遊記』(非賣品 大正元年)

 

上海は「支那の國土にあり乍」も「支那官憲の勢力」が及ばない。ならば「支那は上海の大なるもの」との前田の考えを敷衍すれば、いずれ全土が「支那の國土にあり乍」も「支那官憲の勢力」が及ばないことになるということだろう。まさに亡国状況だが、辛亥革命以後の歴史を振り返ってみれば混乱に継ぐ混乱であり、列強諸国のなすがまま。たしかに「支那は上海の大なるもの」でしかなかった。

 

やがて蘇州を経て南京へ。南京では「船津領事の饗宴に到」るが、その席に列した辛亥革命指導者の黄興について「豐頰肥身温容玉の如く態度悠揚にして驕らず迫らず德望江南の大衆を繋ぎ天晴大頭目の器自ら備はれるものあるを見申候」と記す。

 

宴会が終わり宿舎に戻る。さすがに中華民国の建国から半年ほど。国内の治安は乱れていたと見え、「南京城内は戒厳令が布かれ居り歩哨斥候銃劍を擬し暗中より馬車を覗きて誰何物色するさまちと不氣味に御座候」。だが、兵士の銃器・服装はバラバラで軍規などなきに等しい。かくて「警戒勤務に服し居るものとは受け取れ不申無頓着とや可申だらしなきやと可申軍規と申すようなこと爪の垢程もあるやなしや疑はれ申候」。たしかに「好き鉄はクギに当(な)らず、好き人は兵にならず」の国である。

 

孔子を祀る聖廟に向う。そこは「瓦落ち墻敗れたる中に荒れ果て」ていた。中に入ると「塵埃堆積して黴臭く」、「滿朝の制帽の艸むらにうち棄てられたるもの山をなし雨露に撲たれて色あせて居り」。やはり王朝が崩壊するや、「今迄尊しとして戴きし冠帽を弊履なんどを棄つるが如くうち棄て」てしまう。やはり「一味の哀愁」を感じないわけにはいかない。

 

「儒教の本家本元にして聖廟を荒廢に委し置き候は奇怪至極なる現象」ではあるが、そうなるだけの背景があるはずだ。「支那國民の敎育の守本尊が此の體裁で其権威を失墜すること斯くの如き樣では國民の精神を指導して行く倫理も道德もあつたものではな」い。とどのつまり「國民敎化の標準機關なくして國家民心鞏固統一を計らんとするは所謂木に縁り魚を求むるより難ければなりにて候」。いまや「從來の專制君主政治より一躍も二躍もして極端なる『ハイカラ』共和の政體」にはなったが、肝心の国民精神の柱を失ったまま。まさか「倫理の標準」を道教、仏教、「『ハイカラ』耶蘇敎」と定めるわけにもいくまい。

 

「聖廟の荒廢」から「支那人は一體物を創造する時は金力も勞力も惜しまず作り上げ候へ共出來上がりたる後はうつちやり放しで修理とか改良など一切致し申さぬ國民」であり、「使へるだけ使ひ盡し大修理の必要起る時は別に新規に建て直す」ものと論じた前田は、「清朝の政治の改善や行政諸般の改革なんどする考え」はなく、「荒廢せる家屋敷などに手を入れず別に新築すると云う心持と全く同じ寸法」で、「新規に國家を建て直す」ことにしたのではないかと、辛亥革命を性格づけてみた。

 

そういわれればそうかもしれない。1912年2月に清朝最後の皇帝である宣統帝は退位を余儀なくされたものの、革命政権の手で断罪・処刑されたわけはない。死罪にも、国外追放にも遭ったわけではない。じつは紫禁城内という限定された区域の中ではあるが、清朝皇帝そのままの生活を享受することを、財政的にも中華民国政府から保障されていたのだ。

 

1912年に地上から消え去ったはずの清朝ではあるが、じつは紫禁城の裡側で生き続けたのである。中国全土は「中華民国」を冠した年号に代わったものの、紫禁城内では皇帝に因んだ宣統年号が継続していた。いわば当時の中国では‟2つの時代”が同時進行していたことになる。宣統帝が紫禁城外の空気を感じることはなかった。であればこそ、宣統帝溥儀は清朝の再興を強く求めた。そして一縷の望みを我が関東軍に賭けたのである。《QED》